日本の儒教の話 


  日本の儒教は漢学と共に伝来したと思われます。仏教と同じ頃(6C初め)

かいやもっと以前の5Cの頃かもしれません。

 漢学の内容は、中国の古典にある経(易・書・詩・礼・春秋等)、儒教(論語・孟子)、中国の歴史書(史記・漢書・後漢書等)等々を学ぶのです。即ち中国の文化を学んだのです。

 

 更に大事なことは中国より輸入した漢文です。漢文の読み書きができないと、

上記の漢学を学ことが出来ませんし、中国とのやり取りが出来ないことがあり

ます。

その上日本国内での公用語は漢文でしたので貴族、官吏は漢学の読み書きが

必須の学問でした。もちろん僧侶もお経の字は漢文ですので、充分勉強の必要があります。

漢文は日本ではその後本来の中国の漢文とは少し変化し、和様漢文(候文)となります。

公用語としては江戸時代まで使用されます。

 現在使われている平仮名混じりの漢字使用で“てにをは”のついた日本文で

はなく、返り点がないと読みにくい、いえあっても意味が通じにくいあの漢字

ばかりの文章です。

 

 古代の儒教(論語、孟子)は貴族の教養、常識、そして漢文の読み書きの

練習として習得されていきました。奈良時代、平安時代の学者たちは相当習熟

して一般貴族に講義をしたでしょう。

 菅原道真は漢学、儒教の学者(儒学者)として有名です。

 

 鎌倉時代に入りまして禅僧が改めて儒教を持ちこみ禅宗と合わせ儒教の教えを説きました。

 宗教的なあの世、この世の説明は仏教で出来ますが、この世での道徳基盤、特に為政者(武家、公家)の道徳、倫理の教育は儒教が優れていると考えたのでしょう。

 鎌倉時代の禅僧は幕府の政治の官僚の役割もしていました。ここで武士層に

も儒教が知られるようになりました。

 

鎌倉幕府は後醍醐天皇に滅ぼされます。後醍醐天皇は中国の皇帝のように

天皇専制で下級貴族を官僚に登用して政治を行う方向を打ち出します。これは公卿世襲の朝廷政治と異なります。

後醍醐天皇も側近の北畠親房も当時の為政者の教養として儒教に影響を受けていたと思われますがどの程度かはっきりしません。

 

 儒教は易姓革命(えきせいかくめい)を認めます(天命によって王朝が代わっても良い)。中国は王

朝が幾代も代わってきました。しかし日本は神武天皇以来王朝が代わらない

万世一系を主張されて来ました。

 後醍醐天皇も北畠親房も儒教的な政権の考えをそのまま取り入れては、天皇

家への謀反、転覆を容認してしまうことになります。

とにもかくにも後醍醐天皇は没し、南北朝は北朝が存続し、足利時代となります。儒教は禅宗や天台宗の仏教の僧侶が為政者の教養、道徳として伝えて行きます。

 

時代は下って戦国時代末から江戸時代の儒教です。

儒教の伝来を整理しますと、伝来の最初の時期は仏教と同じ時期かそれとも

更に一世紀前の5世紀のことか考えられます。二度目は鎌倉時代の初めで、

宋に留学していた禅僧が禅と共に持ち帰りました。三度目は戦国期末です。

この時は儒教学派の朱子学、陽明学と古学が同時に入って来ました。

いずれも孔子が説いた儒教の解釈方法や学び方について三つの流派が中国で出来ていたのです。

 

日本で朱子学を広めましたのは、戦国末の儒学者藤原惺窩より朱子学を学ん

だ江戸時代初期の林羅山や木下順庵、中期の室鳩巣、新井白石、18世紀末の

松平定信(老中)の学者たちです。

 特に老中松平定信は、朱子学を幕府の正教とします。昌平坂学問所で林家

(林羅山の子孫)に命じ。御家人の子弟に朱子学を学ばせました。

 それでは日本の朱子学の特徴を記します。

 儒教は孔子、孟子、朱子も易姓革命を認めます。即ち、「天命によって王朝

が代わっても良い」との考えです。これは家臣による下剋上を認めることになります。孔子も孟子も“王が善政を行わなくなったらその時王は既に王ではなく庶民になり下がったのであるから、庶民になった王を討って新たな王朝を建てても良い”との考え方です。

 この思想では万世一系の天皇家は守れませんし、家臣の裏切りや下剋上を

絶対否定する徳川家では認められません。

 更に儒教、特に朱子は中国の王朝が中央集権国家であって、封建体制を前提

にしていません。

従って王朝の官僚は科挙制度で一般人が受験に合格すれば大臣への起用があります。日本の封建制では幕府や藩の役職は世襲です。身分によって武士も役職が固定され、武士以外の登用は原則ありません。

このような儒教(朱子学も)の根本思想を外して、日本は古代から、政権の為政者や朱子学等の儒学者は儒教を広めました。

そして日本の儒学者は、朱子が大事にした五輪「父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の関係」を変形しました。

「君臣上下の身分的秩序を絶対視」(名分論)を基本にしました。こうしなければ徳川封建体制はなりたたないのです。名分論は日本で作られた儒教でしょう。

孔子は「君主は礼をもって臣下として君子(紳士)を迎える、君子は(正)義をもて君主に仕える、もし君主の礼がなくなれば君子は辞す」と言っています。朱子も父子(親孝行)が先で次に君臣の道です。

 

この名文論は水戸学にも取り入れられました。水戸学の国学、儒教も 徳川幕藩体制から外れることはありません。

水戸学派は尊皇攘夷の発祥ですが、尊王と言っても幕府を倒して朝廷政治をしようと言うことではありません。徳川家は天皇から委任を受けて政権を運営しているとの見解で、天皇―幕府の体制は変えるつもりはありません。

日本の儒教は、日本の封建体制の中で自由に変形され、都合の悪い所は 捨てられました。しかし幕府の幹部はその他の項目については、為政者の道徳教育にはすばらしい教えとして受け入れられました。

 

朱子学から分派した陽明学(王学)です。中国明時代の王陽明が唱えた説です。 

陽明学は何かは一層難しいのですが、要するに朱子学が観念的な静の道徳に対し、陽明学は実践的なものとされています。

陽明学を日本に持ち込んだのは中江藤樹ですが、陽明学を信奉した大塩平八

郎(大塩平八郎の乱)、吉田松陰、西郷隆盛を見ると分かります。そして戦後の三島由紀夫もそうです。体制に対し反抗する傾向があります。

故に徳川幕府はこの学派を好みませんでした。

 

 戦国末期から江戸初期に儒教はもう一つ学派の古学・考証学が明、中国清か

ら入りました。朱子が四書(大学・中庸・論語・孟子)を最重要の教科書とす

ることを主張しましたが、この学派は孔子が弟子に講義した時の教科書である

五経(詩経・易経・書経・礼記・春秋)や論語(孔子の教えを弟子がまとめ

たもの)を学ことの方が大事と主張するのです。

この学派の流れをひいた17世紀初め伊藤仁斎は朱子の論理を認めません

大事なのは孔子の教えであるとして論語に重点をおきました(古義学)

 又荻生徂徠は5代将軍綱吉や8代将軍の諮問に答えることもありましたが、

次第に漢文学や漢詩の方に力を注ぎました。(古文辞学)蛇足かと思いますが、

徂徠は赤穂浪士の切腹論を主張した人です。

 

儒教はいくつもの学派が出来ますが、徳川幕府の正教は朱子学です。それも日本流の朱子学です。

 

 それでは最後に幕末において幕府、尊王攘夷派、討幕派が儒教からどのように影響され、逆にどのように利用したかです。

 儒教は徳に朱子学(日本流)が幕府の正教となり、武士の子弟の道徳、倫理

の必須の科目となり、「君臣上下の身分的秩序の絶対視」(名分論)が確立され

ます。

 これを前提に幕末の水戸学は、国学(神道を含む)に儒教を混合させて幕藩

体制維持の理論を作ります。それが尊王攘夷論です。尊王と言っても天皇、

将軍、大名の制度は変えません。攘夷は海禁(鎖国)のままでの海防を主張す

る理論です。

 この理論は江戸時代後期には幕府はもとより全国の武士、公家の多くに支持

されましたが、幕末に幕府が開国に舵を取り(1858年日米修好通商条約)

ます。

そしてインテリ―階級はやがて開国派となって行きます。

 しかし日本式朱子学である忠臣思想は幕府が倒れても変わらず続きます。武士が将軍や殿様への忠臣思想は、天皇への忠臣に変りました。

 

 明治以降日本の儒教を政権がどのように利用したかです。一例を上げて説明に代えます。

 江戸末期に農政家として数々の実績を上げた二宮尊徳(武士ではありません)は太平洋戦争前、小学校の校庭には必ずその像が建っていました。もちろん政府が建てさせました。戦後もしばらくありました。

 像は江戸時代の貧しそうな少年が薪を背負って本を読みながら歩いている姿です。仕事をしながら勉強している姿です。勉学の大事さを象徴させています。

 ところでこの本が「大学」です。上述しました朱子学の「大学」なのです。

と言うことは戦前の政府は儒教でも朱子学が好きだったのですね。

 尚、「大学」は書経(中国古代の政治書)を朱子が編集した書物で、論語や孟子より難解でとても小学校の少年では理解が無理です。少年二宮尊徳の優秀さが分かります。

 

 

2015年1月15日

 

梅 一声