多くの宗教に地獄思想があります。この世で悪いことをすると死んでから地獄に落ちるとの思想です. 今回は仏教の地獄について語りたいと思います。 地獄とは地下にある獄舎のことで、この世で悪いことをすると死んでからこの獄舎に入れられて獄吏から肉体的に様々の責め苦を負わされるのです。 それでは仏教の教祖のお釈迦様(紀元前6~5世紀の人)は地獄のことをどのように言われていたかです。 そもそもお釈迦様の教えは此岸(この世)から彼岸(あの世)に脱する法を教えられたのです。 すなわち我々人間はこの世で生・老・病・死の四苦を味わい死んだ後又この世にまいもどってきて、これをくり返します。これを輪廻と言います。これをやめて彼岸(あの世)に往ってもう此岸(この世)戻ってこないことを解脱と言います。この世での苦しみ二度とを味わないですむ世界に往くことです。 お釈迦様の弟子や初期の仏教徒はこの解脱(さとり)のため修行をしました。お釈迦様はこの修行の方法を教えました。 お釈迦様の教えには地獄の思想があったかなかったははっきりしません。 お釈迦様は自分の教えを文字にされませんでした。その教えはお釈迦様が入滅された後に弟子たちや後世の人々によって書き著わされました。 古い経典(仏説)には地獄について記述されているものもあります。
「お釈迦様のある弟子がやってきて某弟子を非難しました。お釈迦様は某弟子は温良の人であると非難を三度たしなめました。非難したその弟子は地獄に落ちました。」 この例とともにお釈迦様は、「立派な聖者や清らかの人に悪意を抱く者、うそをつく者、貪欲を抱く者、不親切、けち、陰口を言う者、生物を殺す者は地獄に落ちる」とおしゃったと記しています。 ここで仏教に地獄思想が加わり、人間は死んで生前の行いにより、地獄に往ってしまうことがあり得ることになりました。地獄での獄吏による長い責め苦の後にまた人の世に戻って来るのです。(生まれ変わる) お釈迦様入滅後年月が経つうちに、輪廻思想は地獄に加え、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天が加わり計六つになりました。 大乗仏教(紀元前一世紀頃の成立)が言い出したと思われます。 人は死んで極楽浄土に往けない人は、生前の行いによって上記の六つを輪廻します。 大乗仏教は我々衆生を救ってくれるのはお釈迦様だけでなく、毘盧遮那仏(大日如来)、阿弥陀如来、薬師如来等の如来、それに観音や弥勒等の菩薩も彼岸 (浄土)に導いてくれるのです。 それまでの上座仏教(小乗仏教)では、修行したものだけがお釈迦様によって彼岸に往けたのです。 輪廻思想は、上記の通り六つの世界を回ることになりました。六道輪廻と言われます。地獄に落ちたものは灼熱の地獄、餓鬼は飢えの世界、畜生は畜生に生まれ変わる、阿修羅は殺し合いを続ける世界、人は人間世界、天は天上で優雅にくらせる世界です。 天は浄土極楽(彼岸)ではありません。どの世界とも同じように期間は有限で次にどの世界に往くか定まっていません。 さて日本に仏教が伝わりましたのは、欽明天皇の代の西暦538年ということになっています。 仏教が伝わる以前の日本では地獄の観念は、黄泉の国です。死んだら黄泉の国へ往きます。 古事記によりますと、「死んで黄泉の国へ往ってしまったイザナミをイザナギが訪ねていきます。そこでイザナギは蛆虫に食い荒らされたイザナミを見てしまい、イザナミに追いかけられ、逃げ帰って来る」話が出ています。 当時の日本の人々は身内が死んだらふつうは祖霊となって故郷の天空にさまよっており、黄泉の国は地獄のようなものと思っていました。
日本には大乗仏教が伝わります。 地獄は上述の輪廻思想の地獄なのですが、黄泉の国と混同が起こります。 悪いことをすると地獄に落ちるのですが、場合によってはイザナミのように何故黄泉の国(地獄)に往ったか分からない人もいます。そして生きている人間が地獄と行き来し、閻魔大王や地獄に落ちた人と話ができます。(イザナギのように) 平安初期に書かれた日本霊異記にいくつかこのような話がでています。 「奈良時代、知恵第一と言われた智光と言う僧は行基が大僧正になったのをねたみました。そして智光は亡くなり地獄に落ちて閻魔大王に焼いたり、炒られたりの苦しみを味わせられた後に罪をつぐなったとして9日後にこの世に戻されました」 どうも平安初期まで日本人の多くは仏教の地獄、輪廻する六道の世界を充分理解していなかったようです。 ところが平安時代に入り、十世紀になりますと天台宗系の浄土教の教えが広まり始めました。 浄土教の教えは、「阿弥陀如来を信仰し、念仏を称えることによって極楽浄土に往生できる。」となりますでしょうか。 お釈迦様は、修行をして解脱、悟って彼岸に往けると言われたはずなのですが、大分変ってしまいました。 浄土教の教えは浄土宗、浄土真宗となって独立の宗派となっていきます。 さて浄土教は平たく言えば、念仏(南無阿弥陀仏)と称えれば極楽浄土に往けるのです。それまでどんな悪行を重ねていても念仏を称えれば往生できるのです。 これなら貴族も庶民も仏教徒になりやすいですね。 しかしながら念仏を称えないで、悪行を重ねた者は死んで地獄に落ちます。インドでできたころの大乗仏教では六道輪廻で、地獄のほかに餓鬼、畜生、 阿修羅、人、天がありましたが、日本の浄土教は地獄だけです。 要するに人が死んだらその人は極楽浄土に往くか、地獄に落ちるかのどちら かです。 これを体系化したのが平安時代に浄土教を熱心に布教した比叡山延暦寺の 恵心僧都源信です。 源信は「往生要集」を著わして地獄の様相を知らしめました。衆生が阿弥陀 如来を信仰して、念仏を称えて西方極楽浄土に往けるために、その反対の地獄 を強調したのです。 源信の後には平安末期から鎌倉時代にかけて、法然が延暦寺(天台宗)から独立して浄土宗を、その弟子の親鸞が浄土真宗をうちたてました。 阿弥陀如来、念仏、それに伴う地獄思想は今日まで日本人の多くに根強いのではないでしょうか。 真言宗、禅宗等においても地獄思想はあります。本尊は阿弥陀如来ではなく、それぞれ大日如来や釈迦如来になりますが、「往生要集」の地獄と似たような 世界をえがきます。 終わりに地獄そのものはどんな所かですが、「往生要集」では地獄をさらに八つに分けています。等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄です。 ここでは灼熱地獄だけ言いますと、「火が身についてまわり、炎に身が焼かれて、その熱に堪え難い責め苦」とのことです。 それでは極楽浄土とはどんな所かと言いますと、浄土教では往生した人(仏) は阿弥陀如来がまします池の蓮の花の上に参るそうです。そして阿弥陀如来の説法を聞き、毎日楽しく暮らすそうです。 浄土教ではその人の生前の功徳(善行)の大きさで極楽浄土で九種ランク(九品)に分けられ処遇されるそうです。 九品仏と名付けられたお寺がありますが、この関連からです。(上品、中品、下品さらにそれぞれを三つに分け上生、中生、下生) ところが古い経典によると、お釈迦様は「弟子から死んだらどうなるのか、あの世はあるのか」とたずねられてもお答えになりませんでした。 その理由をたとえで話されました。以下その概略です。 「毒矢を射られた人が、それを抜こうとしている人を制して、この矢を射た者はだれか、この矢、この矢羽はなんで出来ているのか、これが分かるまで矢を抜かないでくれと言われても、必要なのは毒矢をいちはやく抜くことだ」と言われたそうです。 お釈迦様は死後についての地獄も極楽浄土(彼岸)の様子を語らなかったのです。 仏教は難しいですね。 でも死ぬとき「南無阿弥陀仏」と自分で称える、そしてもしくはお坊さんに「南無阿弥陀仏」と称えてもらえれば極楽浄土に往けるのなら仏教は難しくなさそうですね。
以上
2016年10月25日 梅 一声
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