日本人は何者かについてです


日本人は何者か、これは難しいです、難問です。諸説あります。

 しかし、諸説を混ぜ合わせて現在まあこう考えるのが大方のところかな、と言うところをお話しします。

 

1、旧石器時代

 日本の旧石器時代人(モンゴロイド=黄色人種)は6万年前の氷河期に大陸から陸伝いで日本列島にやって来ました。

 そうです。この頃は世界は氷河期で、北の間宮海峡、宗谷海峡、ベーリング海峡は陸化していました。

 海水の氷化で現在に比べ海面は140メートル低くこれら海峡の最大深度

120メートルですので、大陸から北海道までは陸伝いで来れます。北海道と本州の間の津軽海峡の深度は160メートルですが、海水が凍っていますので氷の上を歩いて本州まで渡れます。又朝鮮と日本列島の間の対馬海峡は深い所では160メートルはありますが、深いところの幅は5キロメートルですので舟で楽に渡れます。

 このように大陸と現在の日本列島はほぼ繋がっていましたので、ヒトは自由に行き来できました。

 

2、縄文時代

 この頃来た旧石器時代人が日本列島に住み着いたのですが、その後1万5千年前から地球は徐々に温暖化が始まり、海面が上昇し1万年前には現在より高くなりました。

 現在と同じように間宮海峡や宗谷海峡は海となり、津軽海峡も船でないと渡れません。対馬海峡も現在のように幅が広くなり、大陸と日本列島は往来が自由でなくなり、隔離されてしまいました。

 この大陸と隔離された1万年前から2千5百年前(紀元前5世紀)を日本では縄文時代と言います。(地球的には地質時代区分における完新世の後氷期時代で、新石器時代と言います。温暖な気候です)

 旧石器時代人の遺跡(静岡の浜北人)はありますが人骨や化石はほとんどないに等しく顔形や体格は分かりません。

 沖縄で発掘された港川人が旧石器時代人ですが、この港川人が日本列島の旧石器時代人との説は現在否定的で、日本の旧石器時代人(そのまま縄文人)は中国東北部、中央アジアから間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡と対馬海峡経由で渡ってきた説が今日強くなっています。

 一時盛んでした縄文人の南方からの渡来説は人気が下火です。

 

 その後気候の温暖化で旧石器時代人は日本列島に閉じ込められ後、大陸等との混交がないまま日本固有の風土気候に特化され他に見ない異貌の顔かたちとなっていくのであります。人種の孤島になったと言われています。

 大頭、大顔、大きな鼻骨、えらの発達、あご骨の発達、奥目、大槌頭(頭が前後に出ている)、低身長の割に脚長、骨太筋肉質、身長は成人男性で160

センチ弱、女子性で150センチ弱。縄文人は六頭身です。

 

 食物は動物の狩猟、木の実採集、魚貝類が主で、根菜や堅菓植物の栽培もあり、定住化が進みました。

 特筆すべきは海辺での生活が多く、貝を食することで、今日貝の捨て場の貝塚が発見されています。貝塚は貝だけの捨て場だけでなく、その他の生活用品や死体の捨て場でもありました。そこから縄文人が発掘されます。

 又、縄文土器は有名ですね。縄目の模様から名づけられました。新石器時代で世界で一番古い土器として名をはせましたが、同時期の物として中国でも土器は発見されていますので、人類が作った一番古い土器とは言えませんが、一番古いグループに入るでしょう。

 縄文時代は、東北地方が温暖気候で落葉広葉樹林(ブナ、ナラ、クリ、クルミ)が生い茂り堅果果実が豊富でした。西は熱帯、亜熱帯気候で照葉樹林(カシ、シイ、クス)帯でした。縄文時代の人口は7万人位で、東日本が西日本より圧倒的に多くの人が住んでいました。

 

3、弥生時代・古墳時代

 さてこの大陸と隔絶されていた縄文時代も晩期には朝鮮との往来が出てきます。気候もだんだん寒くなり、今日の気候に近づきます。東北地方の温帯気候は西日本へ移ります。西日本が亜熱帯から温帯に変わります。海面下にあった東京地方や埼玉地方は陸化に向かいます。しかし今と同じく間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡や対馬海峡は海のままです。

 弥生時代の始りです。2千5百年前から1千8百年前、即ち紀元前5世紀前後から紀元3世紀が弥生時代です。

 中国では秦が成立し、その影響で紀元前後から東アジアの人々が朝鮮半島に押し寄せ、押し寄せられた朝鮮の人々が海を渡って日本列島に渡来してきました。まあポートピープルでしょうか。

 この移動現象は時代の次の古墳時代まで(紀元6世紀)続きます。

 これが日本列島への旧石器時代人以来の二度目の大陸からの人の到来です。縄文時代は大陸とはほとんど行き来がありません。日本列島の人も朝鮮半島

の人も中国の人もわざわざ危険を冒して海を渡って往来するほど互いに交流を

求めませんでした。

 しかし民族移動が大陸から始りました。移動の理由に舟の大型化に成功したことをあげる研究者もいます。

 この時に金属器(青銅器、鉄器)と共に稲作(水田耕法)が日本に伝わりました。

 この大量の大陸からの移動と文化の移入は縄文時代人に二つの大変化をもたらしました。

 一つは大陸からの新たな人と縄文人の混交(混血)により顔形が変わってきました。弥生時代(紀元前5世紀前後〜)から時代の古墳時代(〜6世紀)までの約千年の間に100万人が大陸から移動してきたと言われています。

同じモンゴロイド(黄色人種)でも数千年も隔絶されたため特異な顔立ちなった縄文人は、新たに入ってきた人(モンゴロイド)との混交(混血)によって縄文時代人の顔形に変わっていきました。

弥生時代には未だ縄文人似た人々が多数いたことは発掘調査で分かっています。

そして古墳時代にはその後の近代の日本人の原形が出来上がりました。

 弥生時代人や古墳時代人が倭人です。倭人が大和民族、日本人と称せられるようになりました。

 それでは当時の人の顔形はどのようなものだったのでしょうか。

丸顔で彫が深くなく、寸詰まりの顔で、あごは発達していない。鼻と口はこじんまりしている。頭の大きさは中位で縄文人とは変わってしまいます。

 胴長短足は縄文時代と同じですが縄文時代人は下肢が頑丈です。

 この後の平安時代以降江戸時代まで日本人の平均の顔形、体系がこの時代に整えられました。

 

 次に文化ですが、稲作・水田農耕の伝来は縄文時代末期の人の生活を大きく変えました。

即ち狩猟採集の生活から農耕の生活に変わりました。稲作農耕は平地で水田を構え集団が大きくなります。人口が狩猟採集より飛躍的に伸びます。農耕作業のため、又他の集団との農地の奪い合いで戦いが起こり、集団の中で階級が出来上がります。

 金属器は農業用具や武器として石に代わる最高の道具として利用されます。

4、古墳時代から江戸時代

 実はこの階級社会が出てきて以降、庶民の顔と高い階層(貴族、武士)の顔の形に変化が出てきたことを指摘する人類学者がいます。

 庶民は丸顔、長頭(前後に長い頭)で寸詰まりの顔、低い鼻ですが、高い階級は長い顔、鼻筋が通った顔で、短頭(前後に短い頭)と階級で変化します。

江戸時代には役者も長い顔がもてました。浮世絵では役者絵や美人画はやたらと顔が長いですね。

 

5、明治時代以降現在

 ところが明治に入り日本人の顔形、体系が変わります。

 頭が前後に長い長頭の人が少なくなり、顔も長くなり、いわゆる寸詰まり顔が少なくなりました。鼻の付け根が極端に低い人も少なくなりました。身長は江戸時代までは男性の平均は160センチ弱でしたが、徐々に伸び、1975年代には20歳代の男性の平均身長は165センチとなりました。

 現在はどうかと言いますと。ほとんどの人が、短頭、絶ぺき頭で、面長で、江戸時代の人より彫が深い顔になりました。

 20歳代の男性の平均身長は172センチになり、身長の伸びはひざ下の伸びによるものです。因みにイギリスやアメリカの平均身長は178センチです。

 この現在人の顔形、身体は江戸時代のまでの日本人と同じ日本人とは思えない変化です。

 

 縄文時代人と弥生・古墳時代人とでは顔形や体格が大きく変わりました。その後江戸時代人までの日本人は平均した庶民の顔形や体格はさほど変わりません。しかし江戸時代人と現在人とは又大きく変わりました。その変化の度合いは、縄文人と江戸時代人との差よりはるかに大きいと言う研究者もいます。

 身長は未だ伸びつつあります。近い将来西洋人並みの身長になるでしょう。(イギリス人、アメリカ人の男性の平均身長が178センチ)

 この現在人の変化の原因は混血によるもではありません。栄養状態が良くなったことは言えるのですが、それ以外に何かありそうです。

 生活が向上したせいで日本人がみんな階級が上の貴族顔になったのでしょうか。しかし同じモンゴロイドでもアメリカのインディアンは彫の深い、面長の顔です。

 

6、日本民族

 このようにお話しますと日本人は一つ民族と言えるのですが、実際は多くの倭人のほかにも日本には民族が存在するとするとの説が普通となりました。

 一つ目は本州、九州、四国に居住し、縄文時代、弥生時代、古墳時代を経てきた倭人です。現在の圧倒的多数の日本人がそうです。

二つ目が東北地方に居住してきた蝦夷(えみし)です。蝦夷は奈良時代から平安時代にかけて大和朝廷に反抗しましたが、結局倭人に吸収されてしまいました。今は蝦夷を名乗る人はいません。もとは倭人と同じ縄文人です。

三つ目は北海道のアイヌです。元は倭人と同じ縄文人ですが、一時オホーツク人との混交もあり、気候から来る生活(狩猟採集)から倭人とは別の歴史を歩み、明治に入って日本国に吸収されました。今日でもアイヌ民族を主張する人はおります。

四つ目は琉球人(沖縄)です。琉球人と言えば2万年前の港川人(後期旧石器時代人)の人骨が知られています。本州、九州の日本列島の縄文人とは異なり、南方のモンゴロイドが渡って来ましたが、その後途絶し、日本列島の弥生時代人が九州から渡って行って現在の沖縄人が出来上ったのと説が最近の有力説です。

最後に九州南部の隼人(はやと)熊襲(くまそ))もありますが、もう過去の民族とされる位置にあるでしょう。

日本は単一民族と言いきってしまうと問題となります。

少数民族ではありますが、アイヌ民族を抱え、沖縄人も現在は日本人とは別民族を言う人はめったにいませんが、別民族を主張されても不思議でありません。

江戸時代まではアイヌも琉球も日本国の中ではなかったのですから。

民族は同じ血統的な遺伝的な仲間より文化的な帰属意識でのつながりを重視する集団です。

 

7、終わりに

 ここで日本人は何者かへの結論です。

 旧石器時代のアジアの黄色人種(モンゴロイド)が北海道経由と朝鮮半島経由で日本列島にやって来ました。旧石器時代人として住み着いた後に彼らは縄文時代人となって日本人の祖先となって行きました。

 そして弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から多数の朝鮮人や中国人が渡来してきました。

 弥生時代から古墳時代にかけて縄文人と混交(混血)が行われ、現在の多くの日本人の原形であります倭人=大和民族が出来上がりました。

 アイヌ民族は縄文人とオホーツク人の混交(混血)で北海道で独自の生活形態、文化を営んできました。

 現在の沖縄の人々は弥生人が渡って行って独自の生活形態、文化を営んできました。

 両民族とも明治に入って日本国民となり、日本人と称せられています。

以上

2016年2月2日

 

梅 一声