日本人が一番好きな神様八幡様のお話


日本の神様は八百万神(やおよろずのかみ)と言われもう数えきれないほど多くいらっしゃいます。

 神様を大まかに分類することから、八幡様はどのような神様なのかを拝察いたしましょう。

 大昔。日本の神様信仰は祖霊神を拝むことから始まります。仏教も未だ入っていない頃のことです。

 この神様は、豪族は自分の祖先を敬んで家内安全、一族繁栄などを祈ります。氏神様と言いました

又一般の百姓は村の鎮守の神様を拝み、家内安全、豊作、疫病退散、病平癒などを祈ります。産土神(うぶすなかみ)と言います。

 この神様を総じて国つ神(くにつかみ)と言います。

 大和王家(天皇家)においても祖霊神を敬います。皇祖神と言います。天皇家の場合は天つ神(あまつかみ)と言います。

 神武天皇の祖先は高天の原(たかまのはら)から下って来て日本国を治められましたので祖神をそう呼びます。

 

 この神様以外に朝鮮半島からの渡来人が持ち込んだ外来の神様があります。

 更に人間が死後神様になって崇められることもあります。

 天つ神も国つ神も外来の神も人間からの神も奈良時代以降習合してしまいますので、現在は区別がつきにくくなっています。

 はっきりしているのは皇祖神・天つ神・天照大神を祀る伊勢神宮は習合されていませんが、分社であります神明神社は土地の神様(産土神)と習合しているでしょう

 以上は善神と言われる神神で祈れば幸いをもたらしてくれます。

 しかし日本では、悪神・鬼神といって禍をもたらす神がいいます。荒ぶる神です。疫病や天地異変を起こす神です。

 なだめるためにお祈りをします。古代古くはいけにえを捧げたとの言い伝えがあります。

 

 さてそれでは八幡様(はちまんさま)はどんな神様でしょうか。

 産土神、外来の神、人間からの神、皇祖神のすべてを習合しています。更に

仏教の仏様も習合しました。

 すべてを習合させた神様は外にはないでしょう。

 八幡様は八幡神社、八幡神宮、宮、江戸時代までは八幡神宮寺とか呼ばれていました。

 現在全国神社11万社の内で4万社で断トツで一番の数と言われています。この数え方は、正式に官庁に届け出た数ではなく町々や村々に祀られている祠(ほこら)も入ってのことでしょう。正式に届けられた数でも一番です。

 

 なぜこのように八幡様が広がったのかの歴史を見てみたいと思いますが、そもそもの縁起の史料が不確かでこうだと言い切れないのです。

 仕方がないので、筆者が読み、聞きしてきたことを見て来たように物語ります。

 そもそ八幡様は豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)の土豪宇佐氏、大神(おおが)氏の氏神様でした。

 当時は漢音読みのハチマンと言わず大和訓読みのヤハタと呼んでいたでしょう。

 そこに朝鮮からの有力渡来人の辛島氏が朝鮮半島の神と仏教を持ち込んで習合させてしまい、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)ができ上がりました。

 欽明天皇時代(御代539〜571年)と言われています。

 天智天皇の時代には新羅との戦(白村江の戦い―663年)の時、朝鮮半島の神と日本の神の習合の神である宇佐神宮に勝利を祈願したとの言い伝えがありますが、平安時代の記録ですので事実ははっきりしません。

 

時代は下って奈良時代聖武天皇・太上天皇(御代724〜756年)の代から天皇家と宇佐八幡宮との関係が記録の上ではっきりしてきます。(公式記録である続日本紀(797年成立)、日本後記(840年成立)

それでは奈良時代の天皇家と宇佐八幡とのつながりを見てみましょう。

 

1,聖武天皇は新羅との関係悪化で、伊勢神宮、奈良の大神神社(おおみわ

じんじゃ)と共に宇佐八幡宮にも祈願されました(737年)。

宇佐八幡は朝鮮半島の神との習合の神と思ってのことでしょう。

ここで天皇家と宇佐八幡宮と関係が公式記録で初めてはっきりします。

 

 2,同じく聖武天皇時代に藤原弘嗣が反乱し九州に逃げます。

   九州でと言ったこともあるのでしょう。ここでも宇佐八幡宮に戦勝祈願をします(740年)。

 

  3,同じく聖武天皇が大仏建立に際して、宇佐八幡宮は神社でありながら

祈願の協力を天皇に申し入れ大歓迎を受けました。

    聖徳太子、天智天皇以来日本国を仏教をもって統一するとの天皇家の

強い意志があります。

仏教振興のための東大寺大仏建立です。

しかし当時は伝統ある日本の神社には協力を申し入れにくいのが趨勢でした。

どちらが申し入れたか分かりませんが、宇佐八幡神宮は大仏建立費を献金し、大仏開眼の時には東大寺に祈願のため巫女を差し向けました

(752年)。

東大寺には手向山八幡が勧請されました。東大寺の守護神となりました。

宇佐八幡神宮はいち早く神仏習合を行っていましたので容易だったのです。

 

これ以降日本は急速に神仏習合の時代に入って行きます。明治維新政府の神仏分離令まで続きます。

政治的にも文化的にも画期的な出来事と言えます

 

4,宇佐八幡神宮の祭神の八幡様は実は15代応神天皇(4世紀の頃)の  ことで、応神天皇を主祭神として更に祭神として比売淘蜷_(ひめのおおかみ)であると聖武天皇時代に決まりました。

  さらもうお一方神功皇后(応神天皇の母親)が平安時代に入って追加されました。

  応神天皇は実在の人と言われていますのでここで初めて人間が神になった最初の例です。

  又、八幡様は元は氏神、外来神でしたが天皇家の神となり伊勢神宮に並び皇祖神になりました。

  尚比売大神は宗像三女神とも言われますが、諸説あります。日本の女神です。

 

 5,宇佐八幡宮神託の道鏡事件は有名ですね。称徳女帝が自分の後継は道鏡が良いと宇佐八幡宮の神託(神の声)があったらしいので、家臣の和気清麻呂を真偽確認のため派遣しましたが、清麻呂は皇統を道鏡につけるべきでないとの託宣を得たと報告しました(769年)

   清麻呂は配流の処分となりました

 

 6,桓武天皇の時です。八幡様は八幡大菩薩の称号を与えられました

   (808年)。

   菩薩名は文殊菩薩、普賢菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩等で釈迦の弟子です。神が菩薩を名乗るのは八幡神が初めてです。

 

このようにして奈良時代から天皇家と八幡様の関係は伊勢神宮に次ぐ社格

になりました。

 

平安時代清和天皇の時代の山城国男山に宇佐八幡を勧請しました。(860年)

石清水(いわしみず)八幡宮寺です。当初から岩清水寺、極楽寺を持つ神仏習合の神宮寺です。

九州の豊前国の宇佐八幡は都から遠いです。近くにおいでいただいて王城京の守護神になっていただくことにしたのです。

天皇家、朝廷は石清水八幡宮を大事に伊勢神宮に次ぐ宗廟の格になって行きます。

 

 時代はいよいよ神仏習合の時代になって行きます。八幡様は神仏習合の先駆

です。

東大寺をもちろん奈良の薬師寺、西大寺、地方は国分寺をかなめにしてお寺に八幡様が守護神として祀られます。

すべての神社には神宮寺として寺が併設されます。

お寺も八幡様も主宰者は同じ天皇家、朝廷ですから神様の種類は多くても

八幡様が主体になって祀られて行きます。

これが八幡様が全国的に多くなった大きな理由です。

 

もう一つ八幡様が全国的広がった理由があります。

八幡様信仰を氏神として取り入れた仁が源 頼義です。勧請して坪井八幡宮(大阪府羽曳野市)を建立しました。陸奥での前九年の役で戦勝祈願をして凱旋しました(1064年)

子の義家は八幡太郎義家を名乗ります。いよいよ源氏の守護神・軍神になります。

頼義は、鎌倉の由比ヶ浜にも八幡様を祀ります。

時が過ぎて頼朝が鎌倉を本拠地にした時に由比ヶ浜から規模を大きくして

鶴ケ丘八幡宮寺を建立します。寺社習合の神宮寺です。別当(責任者)は僧侶が就任します。

 

 源氏と言えば八幡様が象徴となります・

 御家人たちは競って八幡様を我が領地に勧請して八幡宮を建てます。

 鎌倉御家人だけでなく一般の武士も南無八幡大菩薩にあやかりたいと領地に八幡宮寺を建てます。

 御領主様の八幡様信仰の感化を受けその百姓、町人も森の鎮守の神様(産土神)の祭神を八幡様にします。もともと祭神の名前はなかったことが多いのであまり不都合はありません。

 もちろん新規に神社を作ったり、祠をいたる所に作りました。

 何せ、天皇家、御領主様みんな八幡様を尊崇しているですから。

 

 こうして日本で一番多い神社は八幡様になりました。

以上 

 2021年4月8日

 

梅 一声