日蓮聖人の布教 |
鎌倉時代に新しい宗派として法華宗(日蓮宗)を立ち上げた日蓮聖人は、布教において時の政権北条氏や既存の宗派と激しく衝突します。 これに打ち勝ち日蓮聖人がどのようにして一派を成し遂げて行ったのかを見てみたいと思います。 聖人の教えやその中心である法華経については詳しく記述しません。ホームページ閑話そぞろ歩き「日蓮聖人の教え」をご覧ください。 日蓮聖人が法華宗を立ち上げる鎌倉時代中頃には栄西の臨済宗(禅宗)、道元の曹洞宗(禅宗)、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗(一向宗)は既に立ちあがっておりそれぞれ公認の宗派になっていました。 日蓮聖人は法華宗の立ち上げに当たり、「念仏は無限(浄土宗は無間地獄)、禅天魔、真言(宗)亡国、律(宗)国賊」と他宗派に対する非難、否定を公言し、他宗派を皆敵にします。 生い立ちです。 1222年(貞応元)に安房国小湊(千葉県鴨川市)の名もなき海人(漁師) の子として生まれ、地元の天台宗の清澄寺(せいちょうじ)に学び、16歳で 出家し蓮長と名乗ります。 ご本人は海人(漁師)の出としか明かされません。 栄西、法然、道元、そして親鸞もみんな中流貴族以上の出身です。 日蓮聖人は18歳で鎌倉に遊学、更に21歳で比叡山延暦寺に学び、27歳で 京都、園城寺、奈良、高野山に遊学し、その間法華経を真実の仏語と見きわめ ます。 1253年32歳で地元の清澄寺に戻り、日蓮を名乗り、法華経を立教し、 法華宗として開宗します。 教えを乞うた僧侶はいましたが、上記4人の僧侶と違い特段に影響を受 た師匠はいませんでした。 33歳で鎌倉の名越に住み、釈迦を尊崇する法華経の布教活動をします。 弟子や信徒が増え日蓮一門が形成される中、鎌倉の諸大寺に法論(宗論) をしかけます。 特に法然の浄土宗への攻撃は激しいことが目立ちます。法然はすでに寂 しておりましたが弟子の親鸞等により浄土宗は京、鎌倉の外全国的に布教が 広がっていました。 日蓮聖人は本格的な布教は鎌倉で立ち上げました。京都での布教開始は孫弟 子日像からです。 1260年39歳の時に「立正安国論」を執筆し、前執権で最高実力者北条時頼と対面して、同書を提示して鎌倉幕府で法華宗のみ採用して他の宗派を禁じるように要求します。(法華宗は後年日蓮宗と言います) 同書は十の問答形式をとっていますが結論としては“国家が正法(法華経)を 立てて邪法(浄土宗、真言宗、禅宗等)を禁じ、人心の根本を改造して、もっ て国の真の平和をもたらせよ”となるでしょう。 そしてその頃地震や災害があいつで起こっており、これを収めるには法華経への信仰が絶対必要であると。 「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」 日蓮聖人の法華経は、政権が法華経を信ずることが国家安泰、鎮護国家の元になるとの考えです。 そのために法華宗のみの公認を求めたのです。 当時、日蓮聖人の最大の攻撃目標は大衆に人気のある浄土宗と共に社会福祉に力を入れていた真言律宗でした。 鎌倉の政権はすでに源家より北条氏に移っており、北条氏(時頼)は臨済宗 帰依する所が大きいのですが、その他の真言宗、天台宗、浄土宗、曹洞宗、真言律宗なども支援し、仏教各宗と友好関係にあります。 法華宗以外の宗派を禁ぜよとの新宗派の日蓮聖人の要求飲めるはずがありません。 政権の実質トップの北条時頼が新宗派の日蓮聖人と対面することは異例と思われますが、日蓮聖人はすでに時の人だったのでしょう。 その後も日蓮聖人の他宗への論戦は激しい中で、日蓮聖人の住む鎌倉の松葉ヶ谷の草庵が他宗から焼き打ちされます。浄土宗信徒によると言われています。 しかし日蓮も論戦を止めません。 北条政権は日蓮聖人を伊豆へ流罪としました(1261年)。喧嘩を売ったの は日蓮聖人との判定でしょう。 日蓮宗の信徒は法難と言います。 2年で赦免となります。幕府の幹部の誰かが申請したのでしょう。一旦生ま れ故郷安房に帰りますが、そこでも反対派に襲われ負傷します。そして鎌倉に戻ります。 鎌倉へ戻れるのですから幕府からの禁圧はなかったのでしょう。 日蓮聖人は他宗に論戦を挑み、幕府にも法華宗を取り立てないと、内乱と侵略があると訴えます。 日蓮聖人の他宗への宗論(理論攻撃)によるトラブルが幕府には手に余ったのです。 日蓮聖人を佐渡に流罪としました。日蓮が50歳の時です。 ところが滝の口(江の島の近く)で斬首されそうになりました。これは幕府が初めは流罪と称しておいて斬首にしようとした説と他宗の信徒がかってに斬首しようとした説とがあります。 日蓮宗の信徒は幕府による仕業で法難と言っています。 とにもかくにも天候の異変で稲妻(雷か)に襲われ斬首できず、佐渡送り が実行されたのです。 佐渡には3年ほどで赦免になりました。赦免の理由は分かりません。幕府内の信徒が赦免の要請をしたのでしょう。 佐渡でも布教を行い、浄土宗の信徒とトラブルがあります。門弟の日朗が佐渡に訪れることを許されています。 もちろん快適な生活ではなかったでしょうが、有力な支持者や信徒もおり、絶対的に拘束されていたわけではありませんでした。 鎌倉に戻り執権北条時宗の内衆で政権に近い平頼綱と対面したとなっています。官房長官のような人です。 頼綱より「千町歩を寄贈するので他宗派非難を止めるように言われたが、 日蓮聖人から幕府が法華経を信じ、他宗派を禁圧しなければ応じないと答えた」と、日蓮宗には伝わっています(日蓮聖人註画讃)。 日蓮聖人の布教は容認されています。 一般の信徒と共に侍の中でも信徒も増え、もう相当の名士になっていたのでしょう。この後甲斐国の身延山中の庵に住みます。1274年53歳の時です。 1274年に蒙古が襲来し、2年前には一族北条時輔(執権時宗の兄)の乱があり、日蓮聖人の立正安国論での予言があたったと言います。 日蓮聖人は身延山で、弟子養成、著述と布教活動をして9年間過ごしました。 体調が思わしくなくなり療養のため常陸の温泉へ行く途中の武蔵国池上の 地で寂しました。1282年(弘安5)、61歳でした。 この地には今池上本門寺(東京都大田区池上)があり、有名ですね。 それでは日蓮宗の信徒の層はどのような人が多かったのでしょう。 日蓮聖人は自分では漁師の子であることを強調し、当時動物を殺生することを生業にするものは成仏できないとの言い伝えを打破しました。 侍も人殺しが生業です。後ろめたさがありました。これを日蓮は殺生地獄から救いをしました。 又成仏がなりがたいと言われた女子も成仏を約束しました。それまで女子 は男に生まれ変わってから成仏できると言われていました。 一般の侍や卑賎の職業の人々の多くが信徒になります。 更に日蓮聖人寂後の京都ですが、商人の多くが信徒になりました。日蓮聖人の教えは厳しいですが、明快で釈迦だけを教主にし、現世娑婆世界の幸福の実現を言います。 毎日売った買ったの利益追求の厳しい社会を生きている商人にとって現実社会優先の日蓮宗は自分たちの生活信条と一致したのでしょう。 武士も漁師も殺生地獄に落ちると言われても生きるために毎日の生業を止め るわけにいきません。 職業上の殺生を許してくれる日蓮宗は救いです。 日蓮聖人寂後、弟子、孫弟子と代々続き日蓮宗の布教に成功します。 日蓮聖人の遺言もあり京都に日朗門下の日像(日蓮の孫弟子)が京都進出に 成功し、その後何人もの門弟が京都布教に成功します。 室町時代に勢力争いから京都では一向宗(浄土真宗)と武力衝突もします。 両者の間も落ち着き、仏教各宗安定の江戸時代にはいり今日に至ります。 以上 2021年3月15日 梅 一声
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