南蛮人が見た日本と西洋の風習の違い |
日本に最初に来た西洋人はポルトガル人で1543年(天文12年)に現在の鹿児島県種子島に漂着しました。その時鉄砲をもたらしました。日本はその時代は戦国時代の真っただ中でした。鉄砲が大変重宝で自国で大量に生産されるようになりました。
このポルトガル人の来航で、以後ポルトガルやスペイン等の西洋と貿易が盛んになっていきます。
貿易だけでなくポルトガル人等はキリスト教(耶蘇教)の布教を日本で行いました。1549年(天文18年)にフランシスコ・ザビエルが到着して大友氏(九州の豊後)等の保護を受け布教活動を展開しました。ザビエルの帰国後も多くの宣教師が来日し、織田信長の保護を受けてひろめ、信者(キリシタン)数は30万人位になったと言われています。
しかし信長亡き後豊臣秀吉や徳川幕府はキリスト教を弾圧して日本から宣教師を追放し、キリシタンを仏教に強制的に改宗させました。
このことについては、学校の教科書にも載っていますので、みなさんご存知のことと思います。
さて今回のテーマは、この時来日して日本で布教活動をしていた宣教師(司祭)の一人であるルイス・フロイス(ポルトガル人)が当時書き残した記録の中から、“日本と西洋の違い”について面白そうなものをご紹介したいと思います。(種本は松田毅一・E・ヨリッセン著「フロイスの日本覚書」とルイス・フロイス著、岡田章雄訳「ヨーロッパ文化と日本文化」です。)
時代は、日本は戦国時代ですし西洋は中世ヨーロッパですので、これはお含みおき願います。
それでは先ず@男性の風貌と衣服に関することから。
○ 我々の間ではそばかすのある男女が多い、日本人は色が白いけれどもそばかすは少ない。
(西洋人も色は白いので、途中通過して来るインド人や東南アジアの人と比べてのことかもしれません。日本人にそばかすは少ないが、痘痕(あばた)の人が多いことも指摘しています。)
○ 我々の鼻は高く、あるものは鷲鼻である。日本人のは低く、鼻孔は小さい。
(西洋人は鼻梁が直線的で鼻根部の陥凹も少ないギリシャ鼻を理想とするが、その外に釣鼻(ローマ鼻)、段鼻や鷲鼻(ユダヤ鼻)の人が多い。
日本人は稜の少ない丸みの多いいわゆる団子鼻が多い。鼻孔は小さく、鼻をほじる時は小指を使う。西洋人は親指か人差し指を使うことも指摘している。)
○ 我々の衣服はほとんど1年の四季を通じて同じである。日本人は1年に3回変える。
(西洋人にも夏、冬の差異はあるが、形式は同じである。当時日本人は4月1日より袷(裏地つき)、5月5日より帷子(裏地なし)、9月1日より袷、 9月9日より絮衣(裏地に綿を入れる)を着た。)
○ 西洋では男が扇を携え、それであおいだら、それは柔弱なことにされよう。
日本ではいつもそれを帯にさして携え、使用しないものは下等で賤しいもの
である。
(西洋では扇は婦人だけが持つものとされていた)
A女性とその風貌、風習についてです。
○ 西洋の女性は耳たぶに孔をあけ、そこに耳飾りをはめ込む。日本女性は孔
もあけないし、耳飾りもつけない。
○ 西洋の女性は歯を白くするために手をつくす。日本女性は鉄と酢を用いて
歯を黒くすることに努める。
(いわゆるお歯黒(鉄漿)の風習であり、江戸時代まで続き明治になってこの風習はなくなった。)
○ 西洋では財産は夫婦の間で共有であるが、日本では各人自分の分を所有し
ている
(妻の持参金は妻の死後妻の実家の惣領に返すのが通例であった。)
○ 西洋の女性には文字を書くことがあまり普及していない。日本の高貴の女
性は文字が書けないと価値が下がると考えている。
(能筆は上流婦人のたしなみ。)
B日本人の食事と飲酒の仕方についてです。
○ 西洋ではすべてものを手をつかって食べる。日本人は子供の時から二本の
棒を用いて食べる。
(西洋でフォークを用いる慣習は17世紀になって始まったもので、それ
までは五本の指を直に使って食物をつかんで食べた。)
○ 我々は焼いた魚、煮た魚を好む。日本人は生で食べることを一層喜ぶ。
(彼らにとってサシミとはある種のソースをつけて食べる生の魚の食品)
○ 我々は乳製品、チーズ、バターを喜ぶが、日本人はこれらのものすべてを
忌み嫌う。
(当時日本では乳製品を摂らなかった。臭いが悪臭と感じられた。)
○ 我々は普通に小麦製のパンを食べる。日本人は塩を入れずに煮た米を普通
に食べる。
(西洋では今日でも米を煮るとき塩味をつけるのが普通である。)
Cその他に関することです。
○ 我々の間では貴人は自分の部屋の掃除をすることは卑しいことである。
日本の貴人はそれを行い品格のあることと思っている。
(古代、中世において、日本の貴人の振る舞いが西洋人や中国人の貴人と
違うところです。その外日本の貴人は客の為に料理を自ら作ることがあ
りますし、その膳を客の前に自ら運ぶこともあります。西洋の貴人はこ
のような仕事はかならず召使にやらせた。)
如何でしょうか。当時の日本に限られたこともありますし、今日にも当てはまることもあります。全部で6百ほど指摘しています。全部ご覧になりたい方は、上述の本を購入は又図書館などでお読みください。
作者のルイス・フロイス(ポルトガル人)は1562年(永禄5年)から1596年(慶長元年)まで日本に滞在し、日本語はペラペラで、日本のことを記述した多くの記録書(フロイスの日本史等)が残っていす。
16世紀の半ばに西洋人と接した日本人も驚きましたが、西洋人もそれまで接してきた新大陸のインディオやアフリカの黒人と日本の文化の差に驚き、人種観の転換を余儀なくさせられました。地球の裏側に西洋と異質ながら対等の高度な文化圏あることを認めざるを得なかったのです。
ある宣教師が庶民の前で、「人は神の前で平等である」と説教した時、聴衆の中から「それならば神は何故日本をかくも長きにわたってキリスト教に接する機会がなく放っておかれたのですか」と質問あり、その宣教師は庶民程度がこのような質問する日本人知能に驚異を感じ、布教には細心の心配りをしたそうです。尚、質問に対する答えは伝わっていません。
キリスト教(当時は耶蘇教)は豊臣秀吉、徳川家によって禁教となりますが、当時の日本の風習が外国人によっても分かることは面白いと思います。
以上
2014年4月16日
梅 一声
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