源頼朝一家と源氏と平氏の話


 

源 頼朝にも源氏にも平家にもみなさんイメージを持っています。それは大よそ間違いないと思います。

 こではそのイメージを少し壊すかもしれませんが、更にイメージへの追加としてお話をしたいと思います。

 まず「源氏」とは何かです。「源家(げんけ)」とも言います。平安時代嵯峨天皇(京都に遷都した桓武天皇の子)が皇子を皇族から臣籍降下(臣下の地位にする)させ、その時皇子に「源(みなもと)」の姓を与えたのが初めです。臣籍降下させた理由は、皇族が増えますと宮家の維持に費用がかかりますので、臣下にしたのです。

 この方針はその後の天皇にも継承され、後継の天皇になる皇子以外は臣籍降下され、多くが「源」の姓を名乗られるようになりました。

 その時の天皇の名を取って、嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏等とその系統を呼称します。しかしその後すべての系統が繁栄しているわけではありません。

 そして源 頼朝の系統である清和源氏の子孫が最も繁栄しました。この清和源氏ですが、源姓になってまもなく勢力範囲別で、摂津源氏、河内源氏等に分かれて繁栄します。摂津源氏の子孫は京都で天皇や上皇に仕えて軍事貴族として進みます。頼朝より半年早く平清盛に対抗して滅んで行った源 三位頼政(げんさんみよりまさ)が子孫です。一方河内源氏は公家の身分より落ちて地下人の武士(皇居に昇殿を許されない一般人)として繁栄します。これは彼ら子孫が初めは国司(知事)として日本各地に赴任した後、任期切れとなった後もその土地に残り、豪族として繁栄したからです。この河内源氏が源 頼朝の系統ですが、頼朝については後述します。

 ついで、一般に平家と言われる平氏についてです。平家の出現の経緯も源氏と同じです。平安京に遷都した桓武天皇が皇子を臣籍降下して「平(たいら)」姓を与えたのが最初です。他の天皇にも同じ例があります。

 従って天皇家は臣籍降下した皇子には「平」姓か「源」姓を与えました。この人達の子孫を「平家(平氏)」、「源家(源氏)」と称しています。

 平家の内、桓武天皇の皇子から出た桓武平氏言われる系統が繁栄しました。堂上平家(上級公家)と地下平家(武士)に分かれました。

 地下平家の子孫は、坂東(関東地方)と伊勢に分かれて繁栄しました。関東

地方は坂東八平氏と言われ子孫は多くの支族に分かれました。伊勢平氏は京都の朝廷や公卿に取り入って勢力を持ちました。この子孫が平清盛です。

 そして頼朝系の祖先の源氏と清盛系の祖先の平家は、地方の開発領主として台頭し二大武士団となり、京都で天皇、法皇、摂関家に取り入って出世競争(位階を上げて昇殿を求める)をするようになりました。

 朝廷もこの武士団を利用します。10世紀に関東で平 将門が朝廷へ反乱を起こします。いわゆる平将門の乱です。この討伐に清盛の祖先は勲功がありました。この頃から平家は関東に確固たる地盤を持っきました。

 歴史が下って11世紀に奥羽で反乱がおきます。いわゆる前九年、後三年の役です。この乱の平定のために朝廷は頼朝の祖先の源氏(頼義(よりよし)義家(よしいえ))に平定の命令をだし、源氏は奥羽の乱をおさめます。

 義家は頼朝の曾祖父にあたります。源氏は京から奥羽への遠征の時に兵を関東から募りました。即ち関東を地盤にしている平家の武士団の多くを傘下におさめました。乱後も関東の平家の武士団と源氏は交際を続け、一部を家臣化しました。

こうして関東への勢力は平家だけでなく源氏も基盤を持つことになりました。これは義家の手腕です。

 さて次に12世紀に天皇家では後白河天皇と崇徳上皇との間で皇位継承問題での争い(保元の乱)が起こり、源氏(義朝ー頼朝の父)と平家(清盛)は後白河天皇に味方しました。結果は後白河天皇の勝利で終わりましたが、両方とも崇徳上皇側についた身内に犠牲者(義朝は父の為義、清盛は叔父の忠正)を出しました。この戦いの論功行賞に不満を持った頼朝の父である源義朝はライバルの平清盛を倒して朝廷のしかるべき地位につこうと反乱を京で起こしました。

これが平治の乱で義朝は清盛に敗れ、義朝は関東に逃げる途中で味方に裏切られて殺されました。

戦後清盛は、義朝の子供への処置としては、長男の義平(20歳)は斬首、(二男朝長は自殺)、しかし嫡男(三男)の頼朝(14歳)と共に弟5人は流罪もしくは僧籍に入れることで、処刑を見送った穏便なものでした。

 頼朝は伊豆に配流され、伊豆の豪族北条時政の監視下に置かれました。伊豆に流されて20年後この頼朝が平清盛に刃向い、これまた処刑を見送られていた弟たちと平家を討滅することになるのです。清盛は頼朝が立ちあがった翌年に病没します。

 頼朝とその弟を穏便な処置とした清盛の気持ちはどうだったでしょうか。平清盛一家はこの後紹介します源頼朝一家と違い、親子兄弟仲が良く、最大の敵である源家にも穏便です。こうなりますと平家の滅亡は清盛のこの優しさが仇になったのではないかと思われます。

 一方頼朝です。実は伊豆で立ち上がった時の味方はすべて関東の平家なのです。有名な豪族・武将では北条時政(伊豆)、三浦義盛(三浦半島)、畠山重忠(秩父)等々です。その後更に有力豪族である千葉常胤(千葉北部)や上総介広常(千葉南部)川越重頼(武蔵)等々が加わりましたが、みな平家です。

源氏一族は、頼朝が平家に支えられて立ち上がった後で頼朝味方の声を上げました。例えば弟では、範頼と義経、一族では足利氏(室町幕府の足利氏の祖先)や武田氏(武田信玄の祖先)等です。

 何故頼朝の多くの味方は平家なのでしょうか。関東は平家の地盤です。だから清盛も頼朝を関東(伊豆)に配流にしたのです。しかしこの平家の地は頼朝の曾祖父の義家の時に源氏の地盤にもなっていたのです。

 そこに関東の平家武士団は、京都の平氏(伊勢平氏)である清盛一家ばかりが繁栄することに反感が積もっていました。

 更に後白河法皇と清盛の仲たがいのことを聞いていたので、伊豆にいる源氏の貴種(惣領)である頼朝の挙兵に手を貸して自分の勢力維持向上を図ることにしたのです。頼朝は曾祖父義家以来の先祖伝来の関東の友好関係にある平家武士団に支えられて旗揚げしたのです。

 頼朝は平家の清盛一家を倒し、頼朝による源氏政権を打ち立てることを目標にしました。関東の平家武士団は自分の領地拡大を願ってのことで別に政権は源氏でも平家でも良いのです。頼朝と関東の平家武士団とは同床異夢で平 清盛一家打倒で立ち上がりました。

 だから頼朝の死没後源氏政権は続かず(子の頼家、実朝で終り)政権は平家の北条氏に移ってしまいました。関東の武士団は別に源氏政権でも平家政権でも構わないのです。自分たちの領地が守られれば源氏でも平家でも良いのです。

そういう意味では武士団はドライです。強そうな勝ちそうなリーダーについて行きます。そうでなければ「家」は残せませんから。

 さてここで頼朝と源氏一族との葛藤についてお話します。頼朝は関東の武士団(平家以外にも秀郷流藤原氏や宇都宮氏等があります。)の統率にいち早く成功します。しかし源氏一族の統率に神経を使います。頼朝へ反抗する源氏一族への掣肘との言い方もできるのですが、これは確固たる頼朝政権の樹立のための政治家頼朝の戦略と言う方が正しい云い方です。源氏一族ですと勢力を持てば頼朝倒して政権をねらう可能性があります。

 順を追ってみましょう。頼朝挙兵に答えるかのように信濃で挙兵した木曽義仲です。頼朝の従弟にあたります。頼朝に臣従していたのですが、戦に強く京都から平家を追い出し一大勢力となった所で潰されました。頼朝に対抗しうる程大きくなり過ぎたのです。

 次に弟の義経です。木曽義仲、平家討伐の為の頼朝の代官に任命されご存知の通り、木曽義仲を京より追い、平家を壇ノ浦で壊滅させます。大変な殊勲ですが、この名士となった義経を頼朝は謀反に追い込み、奥羽に逃げ込んだ所で藤原氏に処罰させます。

 叔父の行家です。義経と仲良かった関係で義経行動を共にして討伐されます。

 頼朝の弟で義経の兄あたる範頼です。この人も頼朝の代官として義経と一緒に京、壇ノ浦と活躍します。実は義経より上席で、範頼が総大将で義経は副将と言うところが正確でしょうか。ですから平家討滅の最大功労者は総大将の範頼と言って良いのです。

 この人は兄頼朝が一族に対しいつも疑心暗鬼になる性格を知っていました。平家を攻める時には、義経のように勝手な作戦を取らず、いちいち鎌倉の頼朝の指示を得る形を取り、戦況をつぶさに報告していました。頼朝からの推薦で三河守になった後もすぐに辞職し、名声や勢力が大きくならないように気を遣いました。しかし義経討伐後しばらくして自殺に追い込まれました。

 頼朝の弟にはもう一人義円と言う人がいましたが、僧侶であったせいかあまり目立たない存在でしたが、頼朝が死没後子の頼家によって殺されました。

 頼朝の兄弟は戦死か頼朝に殺されてしまいました。頼朝は兄弟、一族には神経を使いました。

頼朝死没後北条氏の主導で、子の頼家(二代目)と実朝(三代目)は喧嘩した結果息子たち二人は滅び、これで頼朝一家は頼朝の兄弟も息子も亡くなり滅亡します。

 清盛一家は二十数年身内では特に争い事が無く、一族仲良く滅亡していったのと滅亡の仕方が対照的ですね。

 

                                 以上   2013年9月3日

梅 一声