老中松平定信の時代

 


 

 松平定信と言われて、どの時代にどのように活躍した人か直ぐに思い起こせる人は歴史好きの人か、学校時代に日本史を選択した人でしょうか。

 徳川家康が江戸幕府を築き、その後255年間幕府は続きます。平安時代までの朝廷政治の天皇政権を別にしますと武家政権では鎌倉幕府が約150年、室町幕府が約240年(南北朝時代の56年を含む)、織田政権が9年、豊臣政権が16年です。

 明治維新から今日まで5世代以上に渡っていますが、それでも150年位です。

 徳川政権の255年は長いですね。

 それではこの間幕末に尊王倒幕(攘夷)騒動で幕府が倒れるまで幕府は家康が築いた盤石な地盤を持ち続けていたのでしょうか。

 今回は徳川政権255年間の間を前期・中期・後期に分けますと後期に入った頃、即ち陸奥白河藩主(福島県白河)の松平定信が老中に就任していわゆる寛政の改革を行った時代の話をしてみたいと思います。18世紀末の数年間の頃を中心にした話です。

 

 徳川政権の前期(80年間)は家康没後、政治上の事件として鎖国、天草一揆などは起こりますが、幕府や藩の体制いわゆる幕藩体制の財政的な基盤はゆるぎないものでした。

 中期に入り幕府財政が悪化してきましたが、8代将軍吉宗の改革により財政は向上に転じました。いわゆる享保の改革と言われる改革で、新田開発、商品作物(甘藷、サトウキビ、朝鮮人参等)の生産の奨励、支出を抑える倹約令等々を実行し、まあまあ改革に成功したと言えますでしょうか。

 

 しかし吉宗没後幕府(直轄地)も藩も財政赤字が累積していきます。

 そこに凶作から飢饉となり、一揆、打ちこわしが起り、民情は不安定となり、救済のための出費で一層財政は赤字となります。

 

 飢饉救済に幕府や藩が多大なる出費が必要なことは分かりますが、飢饉は30年に一度のことです。

 それ以前に中央政権の幕府、地方の藩そして年貢を米で納めさせる幕藩体制に基本的な問題が起っていたのです。

 

 現象面から問題を見てみましょう。

 それはまず困窮した百姓(農民)が村から江戸城下町へ逃散して来るのです。

 村では耕作者が減り、米の収穫が落ちます。幕府(直轄地)・藩では年貢が減っていきます。

 赤字財政は累積します。江戸や大坂の豪商から財政資金を借ります。金利は年10数パーセントで一層赤字は増えます。

 

 これを抜本的に改革して財政赤字解消を目論んだのが老中首座田沼意次、その後の老中首座松平定信です。18世紀末のことです。

 

 どのような改革をしたのかその効果はあったのかは後述します。

 先ずなぜ財政赤字が起って来たのかです。今日の日本の財政赤字体制と同じではないのですが政権が赤字体制の脱却を目標にしていることは同じでしょう。

 

 当時の幕藩体制の仕組みから見てみます。

 体制の基本は米です。米作です。耕作者の百姓にどのようにして米を安定して多く作らせるかです。豊臣秀吉は小作を廃しみんな本百姓(自作農)にしました。

 家康(徳川幕府)もその政策を踏襲しました。

 幕府も藩も江戸時代前期はこの仕組みで安定した年貢が得られました。

しかし百姓は豊作の時は年貢を払えますが、不作、凶作の時も同じ年貢率(取れ高の3割ぐらい)ではすべて払えません。

 村の有力百姓に田んぼを質に入れて年貢を借ります。不作、凶作が続きますと返せません。田んぼは有力者に取られ、有力者の小作人になって行きます。

 有力者は豪農になっていきます。村は豪農と力のない自作農と小作人に分化します。

 

 一方江戸城下町は繫栄していきます。

 幕府は大名を江戸に住まわせます。大名の家来と将軍の旗本・御家人で人口50万人です。江戸城とこの人たちを支えるために幕府は城下町を作りました。

 町人を積極的に導入しました。侍だけでなく集まった町人のための町にもなり町人も50万人となり、江戸は100万都市になります。

 それでも人手は足りません。

 町人50万人のうちその日暮らしの長屋住まいの町人は25万人と言われていました。

 困窮した百姓が江戸へ流れ込むのには、理由があります。それは仕事があるからです。

 江戸は人手不足です。百姓は手に技術がなくとも武家奉公や商家奉公の下働きの口があり、駕籠かきや人夫の重労働の仕事はいくらでもあります。少し都会の生活に慣れれば屋台(そば、天ぷら等)やかつぎでの販売(野菜、魚等)

が出来ます。

 その日暮らしの長屋住まいですが親子3人位は暮らしていけます。年貢や税金はありません。 

 

 江戸は町人たちによる独自の文化がうまれます。それはその日暮らしの町人も恩恵によくします。暮らしに楽しみがあります。

 芝居、寄席、花街、色町、料理屋、庶民のための屋台、飲み屋、貸本屋、各種の売り物の小売り屋が繁昌します。読み本、浮世絵等の文化が発達します。

 

 困窮した百姓は江戸に行けば仕事があるし、楽しい生活もある。一生懸命働けばその日暮らしから表通りに店を持てるかもしれない。

 百姓では年貢の支払いの心配だけで、払えても外に楽しみがありません。

 江戸で働けばその日暮らしとは言え、生活に心配はありません。上記のような楽しみもあります。

 百姓が江戸へ逃げてしまう理由です。

 

 農村の人口は減り、休耕荒地が増えます。米の取れ高は減っていき、年貢が減ります。幕府、藩は一層財政赤字となります。

 

 そもそも藩の財政(大名の家計と公の財政)と武士の家計の恒常的な赤字の原因は支出の経費を先ず考え、支出を収入の年貢や俸給内で抑えようとする考えが疎いのです。

 この武士の基本的な考え方は磯田道史氏著作の「武士の家計簿」にも記述されていますが、大名も同じです。

 磯田氏は武士の身分費用への支出の過大を言われていますが、要するに祝儀、義礼行事への費用、上司や関係者への中元・歳暮等の交際費が大きいのです。

 大名は奥(大奥)への出費です。

 不況で年貢が減っても、米価が下がって収入が減っても奥の経費、義礼行事費を減らさないのです。

身分への顕示のためです。

 大名や武士の赤字財政、赤字家計は一般的には恒常的です。

 

 大名や武士は豊作でも収入が減る構図にあります。豊作ですと米が余ります。米価が下がります。大名や一般武士は米(年貢・俸給)を現金に代えて生活費とします。現金収入はかえって減ります。米を買う一般町人は助かり余裕資金ができます。

 

 江戸や大坂の豪商は 幕府や藩の米を買い取り流通を抑え、米の値段を操ります。又村の豪農と結んで商品作物の流通を抑え、一層豪商となります。

 赤字の藩は豪商から資金を借ります。返せません。金利支払いが精いっぱいで累積借り入れは増える一方です。

 一般武士も同じです。

 

 この構造的な財政赤字とともに30年に一回ぐらいに飢饉が押しよせます。

 藩財政では仕切れません。藩によっては餓死者が出ます。

  

 それでは松平定信登場前の老中田沼意次時代から政治情勢を述べます。

 天明飢饉と言われる飢饉は5年に及ぶ長期の不凶、不作で各地で一揆が起ります。江戸城下町でも米の価格の暴騰で、怒った町民によって打ちこわしが起ります。米屋や豪商の店が7~8千人の町人に襲われ破壊されたのです。

 将軍のひざ元の江戸での暴動は幕府の威信にかかわります。

 老中首座の田沼意次(おきつぐ)絶対的な後ろ盾であった10代将軍(いえ)(はる)病没したことがあり老中を罷免され更に江戸での打ちこわしの責任から領地の減封の処分となります。

 意次に代わって陸奥白河藩主松平定信(30歳)が老中に、そしていきなり老中首座に抜擢されます。

 この人は8代将軍吉宗の孫にあたります。((注))三卿の田安家から白河藩の松平家の養子になりました。

(注)8代将軍吉宗が田安家と一橋家、9代家重が清水家を将軍の世継ぎの

安定のために興した三家

宝暦8年(1758)に江戸で生まれます。父親の宗武は14歳の時に没します。

 定信は、10代将軍家治の息子の家基が没した後に家治の養子になって11代将軍との話もでましたが、既に白河の松平家に養子に出ており戻すことは不都合とされ、同じく御三卿の一橋家から(いえ)(なり)が家治の養子となり、11代将軍になりました。

 定信は幼少の頃から学問に励み大変な秀才として大名間でその名が高く、田沼意次はその名声から定信の11代将軍をはずす運動したとのうわさがありました。そのようは優秀な将軍を仰いだら自分が権力を行使出来ないと考えたからだと。

 意次失脚の後、11代将軍家斉は15歳と若く、優秀な仁を老中に立てる必要があり、一橋治済(はるさだ)(家斉の父)と御三家(尾張、紀伊、水戸の徳川家)定信を強く推しました。

 老中になるには寺社奉行(奏者番)から京都所司代か大坂城代を経て老中(さらに若年寄を経る場合もあり)就任が普通のコースです。しかし定信はいきなり老中で、それも古参の老中が就任する首座です。今で言えば高級官僚も閣僚の経験なくいきなり総理大臣就任みたいなものです。

 御三家と御三卿は幕閣(老中、若年寄)にはなれません。田沼意次を排除し若い家斉を輔佐するため徳川一門の優等生を送り込んだのでしょう。

 

 定信は早速政治改革を行います。

 前政権田沼意次時代から幕藩制の構造から来る対応が迫られていました。即ち農村の疲弊による年貢の減少から来る幕府、藩共に財政赤字。小作農の増加、百姓の貧困、農村から江戸への人の流出、武士家計の恒常的赤字です。

 意次は農業の振興もやりましが、商人の力を認め商人からの営業税(運上金、冥加金)をとることに重点を置きました。農業政策は新田開発として印旛沼、手賀沼の干拓工事に取り組みました。

 干拓工事は定信政権になって中止されましたが、意次の財政黒字への取り組みは前向きでした。

 しかしこれはいけません。賄賂、贈賄を自ら行い武士社会にこれが常套化してしまいました。

 定信の改革の骨子と成果です。

 ①米の備蓄の奨励((かこい)(まい)

  1万石につき米50石、5年間毎年備蓄を続けよ。各藩に通達

  指定の石高の実行が出来たか不明だが、各藩で米備蓄が重要政策にはなりました。  

  

 ②江戸で七分金制度を実施

  江戸で非常用の米の購入費のためと貸付金制度の立ち上げました。

  江戸で町人地は自治制で、必要な経費(町入用)である上下水道維持費、消防費、消耗品費、町名主等の人件費は地主の町人が拠出して運営します。

今日でいえば住民税でしょう。地主でない町人(90パーセント)は出さ  なくてよいのです。 

  この出費経費を25パーセント削減させ、3,7万両を作りました。内

七分(70パーセント)を積み金とし、更に幕府から2万両を拠出して米備蓄の購入費(囲米)と貸付金運用にあてました。

 

これは成功で、天保の飢饉の時に役立ち、幕末まで続きました

 

 ③農村の復興策

  〇米麦の生産の重視、菜種(灯油)、木綿(衣類)以外の農民換金作物の生

   産は禁ずる。町人同様の利益追求は百姓には認めない。

  

   米生産の減少を食い止めるための施策(年貢の増収)であるがこれでは

百姓のやる気がでません。

   藩や直轄地代官によってはこれを聞かず、荒地田んぼの再開発に資金援

助や年貢の減免、農民換金作物を奨励(殖産)して百姓の農業へのやる

気を引き出しました。立て直しに成功した例も出ました。

 

 〇江戸に逃げた百姓を村に連れ戻すために戻れば3両支給するとのお触れ

  を出したが、不評で4人しか応募がありませんでした(旧里帰農令)

 

棄捐令(きえんれい)

札差に旗本、御家人の借金を棒引きにさせる。

商人は計118万両の負担

 

当然武士には奢侈を禁ずる指示をしますが、上述の儀礼行事への出費は止ま

りません。

この出費はぜいたく品のやりとりですので、奢侈が止まりません。

 

⑤江戸町人への政策

 〇奢侈禁止

  金銀細工物の禁止や上等な絹の着物の制限は元より寄席の数の制限、屋台

のそば屋、女髪結いまで制限の対象。

 

旗本、御家人には借金を棒引きさせたのですから、奢侈は禁止でしょうが、

町人はほとんどは自分の収入の中で支出をしています。商売の元では別で

すが、経常費が赤字で武士のように借金することは稀です。臨時の非常の

出費は質屋で担保を入れて借ります。

このお触れの意味は何でしょう。

奢侈の抑制というより、村の百姓に比べて便利な生活を楽しむ町人への抑

制政策でしょう。

そうしないと百姓が江戸へ江戸へと流れて来るからです。

  

 〇出版統制令

  幕府政策への批判、揶揄を禁止。

  林子平の「海国兵団」(海防の重要性)は幕府批判とみなされます。幕府は海防の重要性は認識しこの後取り組みます。

  黄表紙、洒落本は(恋川春町、山東京伝、蔦屋重三郎等)は幕府公儀を揶

  揄した刷り物として規制します。

 

町人文化が発展し、出版業も盛んになり、町人、学者たちが言いたいこと

を言い出し、政治に意見を言うようになり、この規制に乗り出すのです。

しかし徹底した規制は難しかったのです。  

 

⑥武士への教育

 「下勢(町人)上(武士)を凌ぐ勢い」の情勢を脱却するために武士の教育の強化を図る。

  旗本、御家人は朱子学に基づいて教育されなければならない。湯島聖堂では朱子学以外の教育、研究は禁止(寛政の異学の禁)

そして文武両道に励めよと。

  当時の狂歌で揶揄されました。「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし

ぶんぶ(文武)と夜も眠れず」

 

 田沼意次が農業と商業との共存、商業の利用を考えたのに対し、定信は重農主義と言えるでしょう。

 田沼は贈賄では当時から非難を受けていましたが、政策では非難できないところがあります。

 定信はただ武士が上位で、徳川幕府の権威は保たねばならないとの考えが先行しています。

 百姓は「生かさず殺さず」の考えに思えます。

 彼のやり方では百姓は仕事に精を出しません。働いても自分の成果が得られまませんから。働いて余剰ができ、資産を増やすことが出来、それを使って更に仕事を拡張できる。更に町人のような楽しみ(文化、芸術に接する)が必要だったのです。

 これに答えた藩主(上杉鷹山)、代官、民間人の指導者(二宮尊徳)が村の、藩の復興に成功し、百姓にも喜ばれ高い評価を得られました。

 荒地になった田の復興援助、新田開発援助、取れ高を考慮した年貢、商品作物生産の奨励、販売の藩関与(専売に商品)、藩と商人との連携、百姓の蓄財(運用)の奨励による政策です。

 

 定信の政策は当時の人の狂歌で、「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の

濁りの 田沼こひしき」と歌われました。白河は定信が白河(福島県)の殿様

で、田沼は田沼意次にかけています。

 

 吉宗将軍死没後、農村の疲弊、幕府直轄領も大名領も赤字財政で、江戸城下

町での打ちこわしもあり、豪商繁栄、武士のモラルの低下で徳川幕府の威勢の

低下が言われます。

 そこに国学者の本居宣長や藤田幽国が天皇と将軍との関係に言及します。

 定信は将軍、幕府に威信を保持するために天皇と将軍との関係を「将軍は

天皇より委任を受けて統治している」との大政委任論の説を取りました。

 これは事実ではありません。だれでも知っています。家康は力ずくで天下・

政権を勝ち取って幕府を開いたのです。天皇からの政権の委譲等受けていませ

ん。

 定信の大政委任論が幕末の尊王攘夷の思想に発展していくのです。徳川幕府

自滅への説となります。

 

 定信はもう一つ重要な取り組みをしなければなりませんでした。それは対外

政策です。

 当時は鎖国政策をとっていました。通交は朝鮮、沖縄、通商は清とオランダ

だけです。

 田沼意次時代にロシア(船)からアプローチがあり、意次は北海道に調査隊

を出して、ロシアとの通商を考えました。商業政策を考える人でした。

 定信は三代将軍家光150年間続けてきた鎖国政策は祖法である。国是であ

るとの考え方です。

 そこにロシア使節ラクスマンが漂流者大黒屋光太夫を連れて通交を求めて

根室にやって来ます。

 ロシアが大国であることはオランダより聞いていました。

 江戸湾は無防備であり、断って江戸を攻撃又や江戸湾への出入船が攻撃され

れば守れない。とりあえず長崎へ行かせ、そこで交渉に応じるとしました。

時間稼ぎをしてその間に江戸湾の防備を行うつもりだったのです。

ラクスマンの船は長崎に向かわず一旦帰りました。

 この後定信は江戸防備のため房総、相模沿岸の防備に取り掛かります。

 

ところがこの後定信は老中を辞してしまいます。老中就任期間は18世紀末の

6年間です。

 老中就任中は権力を掌中に収めていたように見えたのですが。

どうして辞めたのかはっきりした理由が分りません。他の老中との折り合いが

良くない、世間の評判が良くない。御三卿の田安家、尾張、水戸の御三家が以前より定信を信頼しなくなったとも言われています。

しかし辞めた後も老中、田安家、御三家から信頼はありました。

 

辞めた後にロシアから長崎に使節がやって来ました。通商の実行を迫ったので

す。

定信がいない幕閣(老中)はこれを拒否します。ロシア側は約束違反として怒

ります。

ロシア船が北海道で暴れ、日本守備隊は負けます。

19世紀に入りロシアだけでなくイギリス船やアメリカ船が通商、通交を求め

どんどん日本へやって来ます。

祖法言われた鎖国は攘夷運動へ、大政委任論は尊王運動へと幕末へ向かって展

開されていきます。

定信の老中時代の話ですのでここまでにしたいと思います。

 

定信の評価です。

老中松平定信は徳川幕府を50年延命させたと言う人もいます。

彼が現れた時代は徳川政権の幕藩体制の陰りが見えて来た時で、この体制をそ

のままで改革して過去の栄光をもう一度は難しかったのです。

内憂では農業問題、江戸城下町の発展、商人の躍進それに飢饉の問題、更に

外患では祖法とした鎖国がロシア、イギリス、アメリカからの通商、通交の要求で先が見えなくなってきたのです。

 海防問題がクローズアップします。

 農業対策は成功したとは言えません。成功した藩や村が出て来たのは定信の老中辞任後で、定信の施策とは違い、指導者は百姓に農業のやりがいを教えました。

定信政権で成功したのは飢饉対策ぐらいでしょう。

定信の基本的な思考は、農業の中心、商業の抑制(金より米、外国貿易の縮小)、

鎖国の祖法化でしょう。

 当時国学と共に蘭学を学ぶものが出てきましたが、彼は朱子学(儒教の一派)一辺倒です。

 当時の日本で学んだ蘭学は医学、天文学で、その外の科学技術を導入していません。

 18世紀中頃にイギリスから起こった産業革命はその後近世、近代にいたるまでヨーロッパの科学技術を飛躍的に発展させていきます。

 蒸気機関の発明、溶鉱炉での鉄の生産、船舶と運航技術の進化、鉄砲(火縄銃より撃鉄式弾丸)、大砲(破裂弾―着地後破裂して殺傷)の兵器の進化、技術は日本では幕末までほとんど取り入れていません。

 この科学技術によりヨーロッパでは手工業から機械工業の工場生産がなされていきます。

 これは鎖国してでは知識吸収は無理で、ヨーロッパに留学して学ばねば取得は難しいでのです。それにヨーロッパでは科学技術がどんどん進化していくのです多少の知識の吸収では追いつけません。

ヨーロッパの科学技術が進化していくのを知らなかったのが現実でしょう。

 日本は産業革命に100年遅れたと言われます。

 

 彼は清廉潔白の人言われました、質素倹約を人々に押し付け、「しわい、夢も希望もなくなる」と当時の人に風評されました。

 

 定信は文政12年(1829)72歳で没します。

 通商を求めてやって来るイギリス、ロシア、アメリカへの対応に幕閣の方針が揺れ動く時期でした。

以上

  2021年10月17日

 

梅 一声

 

参考文献

 

〇人物叢書 松平定信 高澤憲治 2012年 吉川弘文館

〇松平定信 藤田 覚 1993年 中公新書

〇宇下一言・修行録 松平定信 松平定光校訂 1942年 岩波文庫

〇詳説 日本史B 山川出版社

〇武士の家計簿 磯田道史 2003年 新潮新書

〇日本の時代史 近代の胎動 藤田 覚編 2003年 吉川弘文館

〇飢饉の時代史 梅 一声 2019年 閑話そぞろ歩き

〇国史大辞典