前田利家の正室“まつ”


 

 いわゆる加賀百万石の前田家を創設した前田利家(としいえ)、そしてその正室“まつ”について語ってみたいと思います。“まつ”は豊臣秀吉の正室“ねね”と山内一豊の正室“ちよ”とともに戦国時代の賢夫人の一人と言って良いでしょう

 それでは先ず前田利家の略歴からです。

 利家は尾張国愛知郡(名古屋市荒子町)に天文6年(1537)に土豪前田家の四男として生まれ、幼名犬千代。元服して孫四郎利家。

 利家は織田信長の小姓として仕え信長に可愛がられていましたが、同朋衆(奥向きの雑事担当)と喧嘩して相手を殺してしまい、信長から出仕を止めらてしまいました。桶狭間の戦い(1560年)の以前のことです。

 その後勝手に信長の戦に一人で参戦して手柄を立ててやっと帰参がかないました。(1564年)

 その後信長の浅井・朝倉との戦い等で手柄を立て、北陸方面の総大将柴田勝家の与力(信長の命により勝家の配下)となって活躍します。

 天正3年(1575)越前府中で1万石、3万石、そして天正8年能登一国を任せられます(23万石)

 そこに信長が明智光秀に京都本能寺で謀殺されます(天正10年 1582)。

光秀は直ぐに豊臣秀吉によって滅亡します。

 その後の政権をめぐって豊臣秀吉と柴田勝家が争います。両者の一騎打ちの戦が賤ヶ(しずが)(たけ)の戦いです(天正11年)。秀吉が全面的に勝利します。秀吉は天下人になって行きます。

 この戦いに利家は、信長時代に北陸方面での協働してきた関係から勝家に味方して、賤ヶ岳に陣をしきますが、勝家不利を見て退陣します。

 そして更に秀吉の勧誘で秀吉の味方となって越前北ノ荘で勝家を討ちます。

 その後利家は秀吉に忠誠をつくし、多くの戦いで手柄を立て能登国に加え、加賀国の半国、越中国の4郡を秀吉からもらい83万石の大大名になり、徳川家康と共に秀吉政権の中枢となって行きます。

 秀吉は病に伏し、後継の我が子秀頼が幼いことから死後を家康と利家に託します。

 秀吉没(慶長3年)後、家康の専断が目立ちます。

 豊臣政権は徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大老、と石田三成等の五奉行との相互間で揉め大騒動に発展していきます。

 利家は家康を非難しますが、秀吉没年の翌年に亡くなります。

 利家後継の息子利長は家康に抵抗しきれません。

 これについては後段で続けます。

 

 さて”まつ“です。

 織田信長に仕えていた篠原主計の娘で、尾張国海東郡に天文16年(1547)に生まれました。

 12歳で従弟(母とその姉が姉妹)の前田利家と結婚しました。

 翌年に長女幸が生まれ、続いて長男利長(嫡男)と男子2人と女子9人の子をもうけています。

 利家は外に複数の側室に7人の子をもうけています。

 いずれにせよ利家と”まつ“は仲が良かったのでしょう。

 秀吉(藤吉郎)・ねね夫妻とは尾張の清須城下で家が隣りどうしで親交がありました。秀吉も利家も信長の下での下積み時代です。“まつ”とねねは仲良かったようです。

 先に述べました賤ヶ岳の戦いの折に利家が昔から仲が良かった秀吉に付くか、

歴戦の協働者の柴田勝家に付くか迷ったでしょう。

 戦場で勝家から離れ、秀吉の申し入れで秀吉に鞍替えしました。これはやはり若いころからの夫婦での親しい付き合いがあったから許されたのでしょう。もちろん秀吉は勝家打倒のために利家の軍事力が欲しかったからでしょう。ですから賤ヶ岳の戦いの後、利家には論功で知行の加増が行われます。

 

 秀吉天下の下で前田家は大大名になって行きます。秀吉は利家と“まつ”娘を養女とし、“まつ”も他の大名の奥方に比し別格の待遇とします(醍醐の花見などにおいて)。

 

 さて秀吉は絶対権力を掌握した所で、病に伏し、死後息子秀頼の傅役(もりやく)を利家に託します。

 ところが、秀吉没後の翌年に利家が亡くなります。

 家康の専断に反発する石田三成一派と家康に同調する加藤清正一派と間で

紛糾します。

 利家の後継の利長は家康の勧めもあり、大坂城から金沢に帰ってしまいます。本来は父親利家の後を受けて秀頼の傅役として大阪城にいなければなりません。これは利家の遺言にもあります。

 帰ったところに家康暗殺計画が暴露されました。これは実行されませんでした。

 利長は金沢ですが、バックは利長だとの風評がたち、家康は利長討伐の実行に取り掛かります。

 利家の跡取り嫡男の利長はすでに勇将で知られていましたが、家康の政治力には経験も実力も劣ります。家康反対派に組して家康に代わる力はありません。本人が自覚していました。

 利長はびっくりして弁明の使者を送り、家康と交渉します。

 その結果利家の正室、利長の生母“まつ”を人質として江戸に下向が決まりました。

 家康暗殺計画がでっち上げなのか、利長の家来が勝手に仕組んだのか分かりません。

 “まつ”人質で家康は前田家が歯向かうことは先ずないと判断したのでしょう。

 ”まつ“は「自分のことは構わず今後を進みなさい」と言い残して江戸に向かったそうです。

 しかしこれで利長は家康に追従は必定です。

 家康は安心して大老の一人である上杉景勝征伐に向かえます。

 そして石田三成などの反抗の関ケ原の戦いに臨めました。

 関ケ原の戦いではその前哨戦の北陸での戦いで利長が反徳川勢力を叩き功を上げました。

 しかし関ケ原での東西両軍が対戦した時は、弟の利政(”まつ“の次男)が

中立を保って動かないため利長は戦場に出陣できなかったのです。

 戦後の論功行賞で利政は領地を没収され、京都に隠居させられます。

 利政が何故出陣しなかったのか分かりません。前田家で石田三成が勝った場合のことを考えて、利政を中立にして前田家の存立を考えたとか、利政は妻が大坂で人質に取られていたからとの憶測はあります。

 とにもかくにも前田家は関ケ原の戦いを乗り越え、おまけに知行も83万石から徳川将軍家の下で119万石の日本一の大名になりました。(加賀、能登、越中)

 

 利長には子がありません。弟は上記の件で廃嫡です。もう一人の弟利常を養子にして利長の家督に決めました。

 “まつ”の子ではなく側室の子です。

 

 “まつ”は関ケ原の戦いの論功で前田家は大きくなりましたが人質は解放されません。

 二代将軍秀忠の娘珠姫を利常の妻にし、両家の関係を深めますが家康は解放しません。

 利長が死没する慶長19年(1614)、実に15年間江戸で人質生活を送って68歳で金沢に帰ります。

 代わりに新当主利常の実母が人質で江戸に行きます。

 徳川幕府は前田家を心から信用していなかったのでしょう。

 家康も“まつ”には気を使い、江戸での生活中、二度旅行を認めています。有馬温泉の湯治と伊勢参りです。

 

 “まつ”は金沢に戻った後上洛(京都)してねねに会いました。秀吉も利家も家康も亡くなっていす。

 豊臣家は大坂の陣で滅亡していました。夫が清須での下積み時代からの親しいい間柄です。十数年ぶりに会ってどのような話をしたかは残っていません。

 

 三賢夫人を見てみましょう。

 共通は自分の子の筋がお家を継いでいないことです。ねねには子が出来ませんでした。淀の子秀頼は自刃でお家断絶、山内一豊の妻ちよにも子が出来ず、一豊の弟の子が後継ぎ、“まつ”の長男利長には子が出来ず、次男利政は関ケ原の戦いで失脚し、利家の側室の子利常が後継ぎになりました。

 しかし“まつ”もちよも夫ともに作り上げたお家の存続のために夫亡き後も

奮闘します。

 ねねは秀吉没後側室淀(秀頼実母)に主導権をとられ、結局夫秀吉と共に築いた豊臣家を潰すことになります。

 

 この外三賢夫人を見ますと、ねねやちよには賢夫人とし夫を助けた多くの逸話が残っていますが、”まつ“にはほとんど残っていないことです。

 ねねは加藤清正や福島正則を幼少頃から育て上げたこと、ちよは夫一豊が下級武士の時代、持参金をはたいて駿馬を買い与えたこと等枚挙にいとまがありません。

 やはり“まつ”は御家(おいえ)存続のため15年もの間江戸で人質生活を送ったことが評価されて賢夫人と言うことになるのでしょう。

                                   以上

 

 2019年2月13日

梅 一声