皇位継承の歴史


 

 

 誰が皇位を継承するのか、だれがいつ決めるのか、万世一系男子継承が常であったのか、女性天皇存在は何か、譲位は生前が崩御の後か。

現在は皇室典範で定められていますのでもめることはありません。

しかし時代によって変わる皇位継承を見てみます。

 

 時代時代で大よそのことが決まっていましたが、明文規定はありませんでした。それ故天皇が代わる時に継承でもめることが多々起こります。                

 

 古墳時代は天皇のことを大王(おおきみ)と呼ばれていましたが、次代どうやって決められたかです。

 当代の大王が亡くなればその地位は大王の子とか血縁者にかならず引き継がれるとこれまでだれも思っていました。

 どうもそうではないようなのです。

 5世紀の初め25代武烈天皇が亡くなりましたが、子供、兄弟、従弟もいませんでした。時の豪族たちが探してきたのが応神天皇の五世孫と言われる継体天皇でした。

 5世孫とは亡くなった当主から遡って5代前の子孫と言うことです。

 継体天皇は即位以前から近江(滋賀県)、越(福井県)から山背(京都府)にかけての大豪族でした。

 大和の豪族たちは継体に頼んで大和王朝の大王になってもらったのです。応神天皇の五世孫での血縁の話は日本書紀による後からのこじつけであるとの説が現在有力です。

 従て現在の天皇家の祖先は継体天皇との説です。

 

 継体天皇の以前はどうだったかですが、大王位継承は必ずしも血縁ではなく、実力者の豪族が他の豪族に推戴されて大王を継承したのです。

 剛腕の豪族でなくては大和王朝を統率して、国内を仕切り、朝鮮半島に出征出来ません。

 

 継体天皇以降です。

 ここから大王位継承は血縁者になって行きます。大王は他の豪族に比し大分力がついてきたのです。

 継体天皇の後大王位(この頃は大王の生前の退位はありません)は息子の安閑天皇が継承、死没後は弟の宣化天皇が継承、更に死没後は弟の欽明天皇が継承しました。(539年)

 どうして子ではなく兄弟間の継承か、ここは豪族の推戴力でしょう(大伴氏、物部氏等)。そして大王は30歳以上の不文律があったようです。

 大王家の血縁を尊重しながら、そこから選ぶのは豪族たちの立ち位置だったのでしょう。

 

 欽明天皇は豪族蘇我氏と提携を重んじ、蘇我稲目の娘二人を妃に迎えます。

 欽明の後は息子、娘が大王位を継承しますが、姻戚関係にある蘇我氏の推戴力が強い時代です。

 敏達、用明、崇峻、推古(女性)の天皇は欽明の息子、娘です。その後の舒明、皇極(女性)の天皇を推戴した力は蘇我氏によるものです。

 この間(6世紀末から7世紀中)蘇我氏は自分の意にそぐわない天皇、次期天皇候補の穴穂部皇子、崇峻天皇、山背大兄王(聖徳太子の息子)を殺害しています。

 

 しかし大王家(中大兄皇子=天智天皇)が大和王朝の権力を一挙に掌握します。

 それは中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺して滅ぼした時点からです。

 

 事件後皇極女帝は退位し、弟の孝徳天皇に譲位しました(645年)。

 天皇史で生前譲位はこの時が初めてです。

 ここで功労者の息子の中大兄皇子が天皇位を継承もあったのですが、そうはならず弟にも継承されます。

 中大兄皇子が大王位を継承しなかったのは皇子が21歳で、若年だったからです。

 当時は大王位は30歳位からが普通でした。

 ここで大事なのはこの時点で、天皇位の生前譲位がなされたことと、天皇即位年齢は旧来慣習が守られたことです。

 生前譲位はこれより普通になります。

 成人でない天皇が現れます。文武天皇の15歳(697年)、幼児天皇も現れます。平安時代清和天皇の9歳(858年)、六条天皇生後9か月(1165年)となります。

 文武には持統上皇が後見です。清和には初めて摂政制度が導入され、藤原良房が摂政に就任しました。

 これで天皇即位に年齢制限はなくなりました。

 

 皇位継承の候補者は前天皇の血縁関係が条件となり、原則四世孫までとします。子、兄弟姉妹、孫、伯父(叔父)、伯母(叔母)、兄弟の子が候補ですが、子と兄弟が先順位ですが、決まっていません。

 母の出自も影響します。皇族(皇后、中宮、女御)、有力貴族(皇后、中宮、女御)、一般貴族等(更衣、女房、女官)

 これも優先はありますが、絶対ではありません。

 

 それでは誰が候補者から後継天皇を選ぶのかです。

 継体天皇以前は大王亡き後、豪族たちが血縁者も含めて有力豪族を推戴して決まります。亡くなっている前大王には決定権はありません。

 継体天皇以後は、血縁者の候補を天皇と豪族たちで協議して決めました。欽明天皇時代以後は蘇我氏が大王家の姻戚となり継承について強い発言力をもち

権力を専横しようとしたところで大王家によって討滅されます。

 

 蘇我氏滅亡後、後継天皇は天皇や上皇によって決められます。政治も天皇や上皇の親政です。飛鳥時代後期から奈良時代にかけてです。

 女帝や元皇后が後継推戴に強い力を持っていた時代です。

 但し、天智天皇の亡くなった後は、息子の大友皇子と弟の天武天皇で継承争いがあります(壬申の乱)。

 奈良時代の末期に称徳女帝の後継は藤原氏等の貴族が協議し光仁天皇を推戴します。

 

  次に平安時代です

 娘を天皇の妃(皇后、中宮)にする姻戚関係による藤原氏の摂関政治時代で、

天皇の子にするか、兄弟にするか、その他の血縁にするか藤原宗家の意向で決まります。

 次の院政時代になりますと院もしくは天皇によって継承者が決まります。

 鎌倉時代に入りますと決定は鎌倉幕府の意向によります。

 後醍醐天皇はこれまでの慣例を打破して自分の子供への継承をはかって鎌倉幕府を打倒します。

 南北朝時代は後醍醐天皇派の南朝と足利尊氏が打ち立てた北朝がそれぞれ後継を決めます。北朝は足利将軍の承認が必要です。

 南北統一後は足利将軍の承認が必要です。

 

戦国時代に入り、将軍も外の有力大名も天皇家の面倒を見れません。

 摂関家も上級貴族も天皇に娘を嫁がさせません。天皇の継承に関心がありません。自分たちの生活が四苦八苦でしたからです。

 即位に係る費用がだれも出せないために正親町天皇は皇太子の誠仁親王に

譲位できない状態が続きました。

 正親町天皇、後陽成天皇、時代は織田信長、豊臣秀吉時代ですが継承問題は

特におこりません。天皇の子が継いで行きます。

 徳川秀忠時代に時の天皇後水尾は突如娘の明正女帝天皇に譲位します。明正女帝は6歳です。女帝は後水尾天皇と秀忠の娘和子との間の娘です。

 ちょっとしたもめごとが幕府との間におこり、後水尾天皇は秀忠に怒って娘に譲位してしまったのです。

 しかしそれ以後は将軍家は天皇家との婚姻に関心なく、天皇位の継承は朝廷で問題なく継がれていきます。

明治の新政を迎えます。

 皇室典範により万世一系、男子が後継者、皇長子―皇長孫―皇長子の子孫―皇次子及びその子孫、後も順が決まっています。

 現在もそうです。

 

 皇太子制についてです。この制度の創設で最初に皇太子になったのは聖武天皇の下での安倍内親王(後の孝謙女帝です)。以後皇太子制は存続しますが、必ずしも皇太子が天皇になるとは限りません。

 

 最後に女の天皇、女帝のことをふれておきます。

 10代8人の女帝がおられます(同じ人が2回即位)。最初は推古女帝で592年より在位36年間。飛鳥時代より奈良時代にかけて178年間に女帝8代(6人)が延べ在任期間97年間です。

 間があいて江戸時代に2人です。

現役の女帝の時には夫はいませんでしたが、即位以前に夫の天皇の間に子がいた方は3人おり、皇極女帝(斉明)の子は天智天皇です。持統天皇の孫が文武天皇です。元明女帝の子が文武天皇です。

以上

2020年11月14日

梅 一声