古代のヤマト王朝はどこから起こったかの話


日本人はどこから来たのかの話は置いておいて、ここではいつのまにか弥生時代に入ります。それから古墳時代の中頃までについて、日本の政治史として最も不明な、あるいはまったく分からない部分がある時代を語って見たいと思います。

 年表を見てもほかの時代に比べて記述事項が極端に少ない時代です。

 時代としては1世紀から5世紀初めまでです。日本が中国より倭(わ)と呼ばれていた時代です。

  この時代の日本ことは中国の歴史書である「漢書」、「後漢書」、「()()」に記述があります。

一方日本の歴史書の「古事記」や「日本書紀」にはこの時代の記述がありますが、1世紀から4世紀位までの歴代天皇(すめらみこと)も実在の人かどうかはっきりせず内容に信憑性が欠けるのです。

そこで日本史の1〜4世紀は上記中国の上記の歴史書に頼る部分が多くなりますが、それでも情報量が少なく不明なことが多いのです。特に4世紀は中国からの情報がほとんどない為、“謎の4世紀”と言われて来ました。

 

それでは1世紀から見てみましょう。この世紀は「漢書」の地理志や「後漢書」の東夷伝を要約します。

{この島に倭人(わじん)がおり、百余国に分かれ、大いに乱れていた。後漢は印綬(金印)を倭の奴国(ナノクニ)に与えた}との内容の記述があります。

この金印「漢委奴国王」は18世紀に九州の博多湾志賀島で発見されています。

倭の国の中に奴の国(なのくに)があったことが分かります。

8世紀の初めに著された「古事記・日本書紀」ではこの時代は神代の物語で、内容は史実ではありません。外に日本では文献史料がありません。そして日本ことは世界史(中国史)に記述がありませんので日本の政治(統治)の仕組みは弥生の遺跡から類推するしか分かりません。

中国5千年の歴史は殷・周・春秋戦国時代・秦・前漢に続き当時は後漢(1〜2世紀)と王朝の推移がはっきりしています。西洋史では1世紀はローマ帝国がギリシャ時代を受けついでいました。日本の統治のことは日本の記録ではなく中国の歴史書でしかほとんど分かりません。まあ日本の政治(統治)史はそんなに威張れるほど古くないですね。

 

2世紀末になりまして倭国の騒乱を「邪馬台国」(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)が鎮め倭王になったとの記述が中国の魏志倭人伝に記述されています。

ここで倭の国が初めて統一され卑弥呼王朝となりました。しかしこのことは「古事記・日本書紀」(今後は「記紀」と言います)には記述がありません。「記紀」では未だ神代の物語の時代です。

 卑弥呼は3世紀の中ごろ亡くなりました。その後この王朝は続かず日本(倭)は又騒乱の時代に入りました。

 

 ところでこの邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのかの決着が未だ歴史学会でついていません。教科書は両論併記にしています。

 魏志倭人伝では位置を示しているのですが、ややこしくてはっきりしないのです。「記紀」では卑弥呼の名前も倭(わ)国もそして邪馬台国も出てきません。

 「記紀」では神代の時代の日本の呼び方は、石殷馭慮島(おのころしま)、大八州国(おおやくにつち・おおやしまくに)、葦原中国(あしはらなかつくに)と称しています。

 

4世紀は中国の歴史書にも日本についての記述が見つかりません。

 4世紀後半に、朝鮮半島の百済と交流がうかがえます。それは奈良県天理市の石上神社(石上神社)で百済からの贈り物の鉄製の七支刀(しちしとう)が見つかり、この刀に刻まれた銘文から当時百済と交流があったことが史実なりました。

 しかし日本の政治体制はほとんど不明です。

 

5世紀に入りますと、中国の歴史書に再び日本(倭)のことが出てきます。一方「記紀」の記述もこれに合っていることが多くなり、信頼性がいくらか出て来るようになります。

 「記紀」の17代天皇以降は中国の記録とほぼ一致します。例えば5世紀の17代履中天皇は中国では「賛」、18代反正天皇は「珍」と呼んでいましたが一致します。

 この5世紀には近畿の奈良盆地南部のヤマトとカワチ(大阪府)にヤマト(大倭)王朝が樹立されていたことが現在定説です。

 

 しかし元々邪馬台国は九州にあって東上して近畿を征服してヤマト王権を打ち立てたのか(邪馬台国九州説)、邪馬台国はもともと近畿のヤマトにあってそのままヤマト(大倭―大和)王権となった(邪馬台国近畿説)のか未だに学者間で論争中です。

 九州説は、記紀の神武天皇の九州の高千穂からの近畿東上征服説にも合い、楽しい説ですが、しかし今日は近畿説が優勢です。

 理由は色々挙げられていますが主な理由は次の通りです。

{卑弥呼時代に既に古墳時代が始まっており、古い時代の大型古墳(前方後円憤)は近畿が中心に多くある。大型の古墳が王権(歴代天皇)の象徴である。卑弥呼の墓も箸墓古墳(奈良県桜井市)と推定される。それは箸墓古墳の創建時と卑弥呼の亡くなった時期とが一致しており、古墳の規模がその時期の最大規模である。又卑弥呼の時代は近畿及びその東の日本も支配する必要があるので、邪馬台国は近畿にあった}

 

 邪馬台国は発音もヤマトに近いですが、ヤマトは奈良の桜井の三輪山の麓の地名です。ヤマト王朝は大倭(やまと)から大和(やまと)と漢字を変え、そして8世紀の初めに正式に日本に名前を変えます。

 私も九州説から近畿説に変えようかと思っています。しかし九州説も捨てがたい。

 

 最後に「日本」の名称についてお話します。

 5世紀に既に存在していたと思われるヤマト王朝は当初、自国を「やまとのくに」と呼び、首都であった現在の奈良県も「やまとのくに」と呼んでいました。紛らわしいですね。

 しかし7世紀ごろより自国(日本)を「日本」(にほん・にっぽん)と称し、8世紀の初めには正式の名称としました。「やまとのくに」(漢字で大倭→大和)の名称は首都の名称だけに使い区別しました。

 

  今日「日本」は、“にっぽん”とか“にほん”と称します。英語では“ジャパン”と呼ばれます。この根拠です。

 「日本」と表わした当時(7世紀)先ず、呉音(唐音より古い中国語音)で“にほん”と名付けました。そして後に唐音(漢音)で“じっぽん”とも名づけました。

 “にっぽん”は呉音の“にほん”から派生した呼び方です。

 一方、唐音の“じっぽん”ですが、日本人が戦国時代まで自国を“にほん”と共に“じっぽん”とも称していたことは当時のキリスト教の宣教師が記録しています(日葡辞書)。

 14世紀初めに東方見聞録を著したマルコポーロは“ジパング”と日本を称しましたが、これは“じっぽん”をこのように聞こえたのでしょう。

英語の“ジャパン”、は“じっぽん”から派生した呼び方で、仏語の“ジャポン”も同じです。

 

話がヤマト王朝から少し外れました。ここまでに致します。

以上

2014年6月8日

 

梅 一声