キリスト教禁教と鎖国ペリー来航の意味


15世紀のイタリアの自治都市国家のベネチア、ジェノバ、フレンツェは

地中海航路をもってトルコ等イスラム諸国を介してインド・中国との交易をな

し、これ等の自治都市国家はヨーロッパ内陸の国々へ更に商品(香辛料、絹織

物)を転売して巨利を得ていました、

 

 しかる所に、ルネッサンスによる科学技術の発達が船舶の大洋航海を可能

にしました。それは羅針盤の改革による航海技術の向上、船舶の強度の向上(*

キール建造)、帆走航法(向かい風でも進める船の開発)により船舶が大洋を

安定的な運航できるようになりました。

 *船底の中心に船首から船尾まで棒をしいてそれを骨(竜骨)として船体を組み立てていく方法で、強度を高く出来る建造方法

 

  この頃イベリア半島のポルトガルとスペインンは地中海交易での商権がな

い中で、何とかインドとの直接の交易を考え、先ず、ポルトガルがアフリカの

西海岸から東海岸へ迂回してインドへの到達を目論みました。

 ちょうど上記帆船の航法が自治都市国家で開発された時です。

  ポルトガルはこの開発された帆船で、1488年にアフリカ南端の喜望峰

 にたどり着き、更にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を迂回してインドの西海岸の

カリカットに着きました。大航海時代の始まりです。

 

  その後ポルトガルはイスラムとの海戦で勝利し、インド洋の制海権を奪い、

16世紀初めにはインド(ゴア)と東南アジア(マラッカ・広州・マカオ)に

拠点を作り、この地との交易の優先権を確保しました。

 

  ポルトガルはインドからそしてマカオ、中国(密貿易で寧波)、東南アジアで交易します。特に香辛料をイスラム商人やトルコ商人を介しないで、アフリカ喜望峰経由でヨーロッパに直接持ち込むことで大変な利益を得ます。

 

 1543年ポルトガル人が種子島に漂着します。

 この時持ってきた鉄砲を日本人が製法を憶え、戦国時代の有力な武器として

戦国の世で使われます。

そして6年後にはフランシスコ・ザビエルがインドから鹿児島にやって来て

キリスト教(耶蘇教)の布教の許しを薩摩の島津貴久に求めます。これから耶蘇教の布教は織田信長の保護を受けますが、豊臣秀吉、徳川家康には嫌われます・

 このザビエルが日本に布教に来た経緯です。

ザビエルはヨーロッパの宗教改革の反対派です。

16世紀の初めにマルチン・ルターやカルバンがローマのカトリックに対抗

してプロテスタントの新教を起こし、宗教改革を提唱します。両派は激し

く争います。その中でカトリック側の内部でカトリックの更なる振興を唱える団体が設立されます。これを反宗教家改革と言います。

 ザビエルは友人のロヨラと共にイエズス会(修道会)を設立してカトリック

の振興に従事します

カトリックの支援国であるポルトガルのジョアン3世の依頼でインドの

ゴアに赴き、さらに日本まで布教を行ったのです。

 ザビエルは2年後の1551年ゴアに戻り、1552年に中国で布教中

に亡くなりました。(46歳)

 その後日本には多くの宣教師が来日し、布教に努め、九州の戦国大名の有

馬晴信や大友宗麟そして織田信長の保護を受けて九州や近畿地方にキリスト

教(耶蘇教)は広まります。(近代中国語では「耶蘇」と書いてイエスと読みます。当時の日本人は「耶蘇」を音読みで“やそ”と言いました。)

 

 日本とポルトガルの関係は当初より、キリスト教の布教だけでなく交易が 大事です。

 日本とポルトガルの交易の中味ですが、実は両国間の交易ではありません。

ポルトガル商人は日本と中国との中継ぎ貿易をやって稼いでいました。マカオから生糸、絹織物、びろうど、おしろい、陶器等を日本に持って行き、日本からは金、銀、銅をマカオに運んで莫大な利益を得ていました。

 

 宣教師も布教費がかかります。彼等もポルトガル商人と組んで交易の商売をして稼ぎます。

 

織田信長は一向宗(浄土真宗)ほか言うことを聞かない仏教宗派があり、

対抗宗教としてキリスト教の布教を認めました。

  信長はポルトガルやスペインがアメリカやインド等を占領した方法を知っ

ていたでしょう。

しかしポルトガル人が連れてこれる軍隊は数千人位で万にはならない。もし

も攻めて来ても充分対抗できると踏んだのでしょう。

 

  秀吉(1582年明智光秀を打倒)は1587年に突如伴天連(キリスト教の司

祭)追放令を出しました。それは突然で宣教師たちもびっくりしました。

  追放令の中味は「日本は神国だから布教は駄目」、「神社仏閣を壊すのは法

令違反」等です。

秀吉はキリスト教を利用してのポルトガルやスペインの日本侵略の危険を

感じたのでしょう。

 教会は壊されましたが、宣教師(100名位)のほとんどは日本に残っていま

した。秀吉のキリスト教禁教は徹底したものではありませんでした。

 交易は続けられました。

 

  秀吉が1598年に没した後は徳川家康政権です。

   家康の対外政策です。

  秀吉没後、ポルガル人やスペイン人以外にオランダ人やイギリス人もやってきます。(1600年)

   家康はスペインとはキリスト教の布教は認めないが、交易と西洋の航海技術の提供をお求めます。スペインはキリスト教の布教なしでの交易は応じません、

   秀吉も、家康もポルトガルやスペインのキリスト教はキリスト教が政治と結びついて日本を征服しようとしているとして、宣教師の追放と禁教令を出したのです。

 

   三代将軍家光による完全鎖国です。ポルトガル船、スペイン船の来航の禁止です。1640年に陳情に来た使節以下61名を長崎で断罪に処しました。

  オランダとの関係は1600年にオランダ船が来航し、家康と関係が深まります。

  家光時代にポルトガル、スペインと交易が禁止とする中で、オランダは幕府に低姿勢を保ち、キリスト教の布教も行わず、長崎出島で交易一筋で幕末まで交際を続けます。

唯一の交易国としてオランダが選ばれた理由は外に未だあります。それはオランダがプロテスタントであったと説明されますが、17世紀初めにはインド、東南アジアの交易の勢力はオランダが圧倒していたこともあったでしょう。

 

  大航海時代と言われるのは17世紀の中頃までです。

 この後18世紀には北アメリカのイギリスから独立はありますが、18世紀

終わりごろの産業革命を経て19世紀はイギリスが第一等の海運国、産業・

商業国としてヨーロッパで最大勢力となります。

  徳川幕府の鎖国政策には今日賛成派と反対派があります。

  「鎖国のおかげで、江戸時代に日本文化が醸成されて国民に高い文化があったので明治に入ってヨーロッパの科学技術を容易に吸収することが出来た。キリスト教を禁教にしなければ日本は、アメリカの諸国やインド等のようにヨーロッパの植民地になる可能性があった。」これは賛成派。

 「鎖国の時代、西洋の情報はオランダを通して入って来たが、情報が不十分なのか幕府の政策かはたまたその両方か、18世紀終わりごろから始まった産業革命の実態を知らずに幕末を迎えた。ペリーの来航でヨーロッパの科学技術、工業力の高さを知ったことは既に遅かった。

 日本がヨーロッパの科学技術に完全に追いつくまでには太平洋戦争の時期までかかった。」これは反対派の意見です。

 

 産業革命の科学技術を積極的に導入しなかった又出来なかった中国や東南アジア等の国は19世紀から20世紀にかけてもヨーロッパの植民地時代を送り、独立後も今日までほとんど発展途上国にあります。

 江戸時代、日本では多くの一般庶民も読み書きそろばんを習い、基礎教育は行きわたっていました。

日本がからくも明治政府の画期的なヨーロッパの科学技術導入政策でヨーロッパに追いつ事が出来たのは、この基礎教育が基盤にあったことが大きいと言われています。

尚、蛇足ながら当時「鎖国」と言う言葉はありません。「海禁」でしょう。幕末長州では「鎖国」と言う言葉を使っていた人はいたようです。吉田松陰等。

 

以上

 

2015年9月20日

 

梅 一声