飢饉の時代史


 

今時日本で飢饉(ききん)の話は身近ではありません。似たような言葉で飢餓(きが)があります。

 現在、世界で8,2億人の人が飢餓状態にあると言われています。アジア、アフリカでの飢餓が良く知られています。

 飢饉と飢餓は使い分けられています。

 飢饉は農作物が実らず、飢え苦しむことで、毎年ではなく一時的で、地域も限定的ですが餓死者が出ます、体力不足で感染症で死に至る人が出ます。

 飢餓は永続的な慢性的な食糧不足で低栄養状態いる場合です。体力不足で感染症で死に至る人がでます。

 世界の飢餓対策については国連を中心に行われています。食糧の補給を行っていますが、原因はその国の政策にもあり、人為災害と言われ根本対策は今後の課題です。

 

 一方飢饉は自然災害を第一の原因としますが、やはり元々は国の食糧政策や飢饉対策からくる人為的なものもあります。

 

 現在は北朝鮮の飢饉が知られています。

 飢饉は単年度の一時期の地域的ですので、よほどの大型の飢饉でない限り世界で救済が可能です。

 北朝鮮の飢饉の時も救援物資が届けられていますが、飢民にどれぐらい届いているのかが分かりません。

 

 さて本題の日本の飢饉の歴史です。

 飢饉はすべて食糧問題から発生します。戦によって食糧不足もありますが、ほとんどは天候異変の自然災害による植物資源の不作からです。

 それでは古いところから縄文時代です。

 この時代には飢饉はありません・

 その頃の人は自生しているトチ、ナラ、ブナ、シイ、栗の堅果類の実を主食とします。(日持ちがする)

 肉食としては野生のイノシシ、シカ、クマ、ウサギそして魚介類をたんぱく源とします。

 ソバ、クリを栽培しますが全体の食糧の内のわずかです。

 人口は自然の食糧資源に合わせられます。資源量を超越して同じ地域内で人口が増えることはあり得ません。資源量を越えた人口増は絶滅を意味します。

 この時代の人は自然との共生です。

 

 弥生時代には日本人は稲(米)の栽培を覚えます。中国の南方か輸入されたと言われています。稲は亜熱帯地方が原産の1年生の竹科の穀類で一つの実よりの繁殖力他の穀類に比し大きく栽培効率が良いのです。

 栽培は陸稲もありますが、日本ではほとんど水田栽培を行います。

 当時一粒から大麦が3~4倍の収穫と言われて時代に、水田での米は8〜9倍位でした。(現在は500〜1000倍)

 米は味も良く量産できるところから西日本を中心に稲作農業が大々的に普及

してゆき、この量産から人口が飛躍的に増加していきます。

 

 古代の大和政権は米の増産から人口増を目指し、国力の拡大を図りました。

 この稲作農業は大和朝廷だけでなくその後の奈良、平安時代、武士の時代も

拡大され西日本、東海から東北地方まで進展し日本の人口は更なる増大となって行きます。

 さて稲作水田農法は天候が順調であればまことに結構な穀物で人口増が図られる食糧となるのですが、いったん異常気象に遭遇すれば悲劇が待ち受けているのです。

 その年の気候によって不作、豊作はありますが、数十年に一度は凶作、大凶作の年があります。2年度に及ぶこともあります。

 この天候異変とは日照りでの水不足による旱害、大雨による大洪水、虫害、

噴火による降灰それに冷害です。

 これが極端な年は稲の実が実らず大凶作となります。いったん増大した人口に見合う食糧が必然的に大不足になります。飢饉がおこります。

 

 古代から中世にかけてのほとんどの凶作は日照りでの水不足から来る旱害によるものです。

 稲作は水田農法では田植から稲穂が実るまで、ずっと水を引いておく必要があります。そして穂が実ったら水を抜いて刈り入れです。(途中で一旦水を抜いて又入れて抜くのは近世以降の農法です。)

 稲穂が成長には水がなくてはなりません。

 旱害は西日本での遭遇が多く、この対策として古代より溜池や灌漑用水を造っていました。古くは弘法大師の讃岐国(香川県)での溜池の造成が有名です。

 しかし田んぼの開拓に溜池の整備が追いつきません。

 月に数日の少量の降雨で水不足の時は稲の実りが悪く凶作となり、飢饉が発生します。即ち飢える人、飢え死にする人、そして体力減により疫病にかかり死亡する人が出ます・

 古代は推古天皇時代(623年)、奈良時代の天慶年間(684年)、平安時代の保延年間(1135年)等の飢饉が記録されています。いずれも都に餓死者が満ちたとの記録が残っています。

 いずれの時も都の住人(近郊からの飢民が多い)への対策として朝廷は賑給米を飢民に出しますが、行き渡らず餓死者でます。

 

 中世では治承・養和の飢饉(1180〜82)、応永の飢饉(1420〜21)

の飢饉が有名で、治承・養和では京で4万人、応永でも相当数の餓死者が出ています。いずれも旱害による凶作からです。

 中には長雨による冷害からの凶作もあります。寛正の飢饉(1460〜61)では京で8万人の餓死者出ました。平安時代末から室町時代にかけ近畿、西日本では6回の大きな飢饉を経験しています。

 飢饉はかならず餓死者がでます。

 室町幕府は裕福な寺(天龍寺、相国寺)や有力大名、有徳人(土倉、酒屋の金持ち)に施行(飢民にかゆをふるまう)をさせていますが、とても足りません。

 足利将軍家は直接何も出資しません。将軍家、幕府には余分な財政資金はなかったのです。

 古代も中世も飢饉による餓死者は都に集中します。それは都の近郊の百姓が都に米が貯蔵されていると思い集まって来るからです。しかし政権は蓄えが足りず餓死させてしまいます。

 

 次に近代、江戸時代の飢饉です。

 西日本では日照りによる旱害対策(溜池、用水造成)が進み、旱害による凶作、飢饉は無くなっていきます。

 

 一方、水田稲作栽培は中世末から近世にかけ急速に北上します。新田開発により稲作による米食糧の増産で東北地方は人口が増えます。

 江戸時代では、寛永の飢饉(1641〜43)、元禄の飢饉(1695〜96)、

享保の飢饉(1732〜33)、宝暦の飢饉(1755〜56)、天明の飢饉(1783〜84)、天保の飢饉(1833〜39)があり、享保のウンカ(虫)による西日本の飢饉以外はすべて東北地方におきた飢饉です。

 原因は冷害による凶作です。

 東北地方特に青森、岩手地方です。この地方は縄文時代は温帯でした。しかしその後の日本列島の寒冷化で、夏場も30度を超えることは少ない気候です。30~50年に一度は冷夏が襲ってきます。これを土地の人はヤマセ(山背・山背)が吹くと言います。現在はこれをオホーツク高気圧による東風冷雨現象と言っています。

 春から夏になっても平均温度は20度を越しません。冷たい雨の日が多く、日照りの日がほとんどありません。

 稲はほとんど実りません。

 稲はもともと亜熱帯が原産地です。低温では成長しません。ヤマセが吹く年は大凶作です。飢饉となります。餓死者でます。

 このような植物を亜寒冷地帯に近い東北で栽培し、食糧を増産して人口を増やし、低温年に凶作で飢饉となって餓死者が出る痛ましい状況が繰り返します。

 しかし東北地方で稲作を止めるとの声は上がりません。

 ヤマセは数十年に一回です。その年凶作で飢饉で餓死者が出ても翌年、遅くとも翌翌年には稲は実り生産は復帰します。人口減も元に戻ります。

 

 飢饉での餓死者の発生はどの時代でも痛ましい出来事です。時の政権は施し米を出すために米の貯蔵をします。そして百姓にも蓄えを指導し、米の不作、凶作に備えて、畑作での麦やイモなどの栽培を奨励します。

 特に江戸時代は飢饉への準備の政策が打ち出されましたが、実際の飢饉では

餓死者がでます。

 百姓も領主も蓄えが出来る通常年はもとより不作の年も米の市場価格が高くなると他国に売ってしまうからです。飢饉は忘れられてしまうのです。

 そして災害は忘れられた頃にやって来るのです。

 

明治以降何回か米の凶作はありました。すべて東北地方です。冷害による凶作です。輸入で賄いました。  

戦前の凶作の折も餓死者はほとんど出なかったのですが、農家は暮らしが立たず子供の身売りが話題になりました。

 現在の我々は飢饉を経験しません。心配もしません。米が凶作となれば輸入に頼ることになるからです。

 しかし何らかの理由で輸入が十分できないような事態となれば飢饉も想定できないことはありません。食糧の自給率が問題になっています。

以上 

2019年10月20日

梅 一声