勝海舟についての余話

 


 

 幕末の英傑は討幕派の代表が西郷隆盛なら徳川幕府側の代表は勝海舟になるでしょう。

 勝海舟と西郷隆盛との講和折衝によって、江戸城無血開城で政権は幕府から維新政府に移譲されました。

 勝海舟については前回作「幕府幕引き役の勝海舟」によってお話しましたが、更に勝海舟についての伝わっているこぼれ話・エピソードを余話として語りましょう。

 

 海舟は兵学を学ぶため最初は蘭学から始め相当勉強した後、これからは英学だと悟り、英語を勉強しようと思い江戸の名のあるある塾に入門を乞いましたが、断られます。理由は江戸者は根気がない。語学は根気だ。江戸者には無理だと。

 その後受け入れてくれる塾を探し勉強します。

 さて英語力はどれぐらいの腕前なのかのエピソードです。

 彼が書いた英文記事が長崎の英字新聞に載ったそうです。

 英国人発行の英字新聞に載るぐらいの英語力を持つようになっていたのです。今でも英字新聞に投稿できる人は少ないでしょう。

 さてこの記事を読んだ吉田松陰先生は海舟の英語力はたいしたことはないと評論しています。

 松陰の海舟への学問上のライバル意識もあったでしょう。

 記事が残っていないので海舟の実力は分かりません。

 ただ吉田松陰が処断されたのが安政6年(1859)ですので、それ以前に攘夷派の松陰は儒教、蘭学、兵学に優れた学者であった上に更に英語もマスターしていたのです。未だ蘭学が洋学の中心時代に二人は既に英学に進んでいたのですね。

 

 海舟は咸臨丸でアメリカに行き帰ってきます。

 時の老中より「異国で何か目についたことがあろう」と、海舟答えて曰く「アメリカでは政府でも民間でもおよそ人の上にたつ人は皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは全くわが国とは反対のように思いました」

 無能な上司には嫌味を言うことがままあり、仲の良い幕臣大久保一翁がいつも心配していました。

 

 当時未だ開国反対攘夷派の坂本龍馬が赤坂元氷川下の海舟の自邸に押しかけ、問答次第では斬殺を目論見ます。

 海舟はこの気配を感じながら応接します。

 龍馬の自説の攘夷展開を聞き、海舟はそれに反論せず地球儀を見せ、日本がいかに小さい島国であるかを言い、しかし英国も小さい島国であるが、世界の海上を何千艘船で制している。日本も海軍が大事と、そうしないと亡国となると。その後も攘夷派の志士が海舟を押しかけますが、海舟は彼らの説を否定せず、世界情勢の話をして説得します。

 龍馬はいたく感動して開国派になり海舟の弟子になります。

 二人は幕府終焉に尽力する英傑として有名ですね。

 

 海舟は仕事で上洛することがあります。

 開国派の海舟を暗殺しようとする攘夷志士がつけねらいます。

 心配した坂本龍馬は子分の岡本以蔵を護衛につけます。この以蔵は人斬り以蔵と志士仲間で恐れられた人です。

 やっぱり海舟は三人組に襲われました。

 以蔵は一人を真っ二つに斬り殺しました。二人は恐れて逃げました。

 後で海舟は以蔵に言いました。「人を殺していけない。」

 それに対し以蔵は「それでも先生あそこで自分が斬らないと先生は殺されていました」と。

 海舟は返事に窮しました。海舟は剣の達人ですが、「人を殺してはならない」が自説でした。

 

 江戸での海舟と西郷との講和会議の前に幕府側は静岡駐屯の西郷との予備交渉を求めます。

 この使節に山岡鉄舟が起用されます。

 しかし静岡までは官軍の占領地域で無事に西郷の元まで行ける保証がありません。

 そこで海舟は自分の手紙を鉄舟に持たせると共に薩摩藩の益岡休之助をつけて静岡に向かわせ、無事に西郷との予備折衝ができました。

 この益岡は前年の暮れに江戸市中を錯乱させようとした江戸薩摩藩の首謀者で幕府に逮捕され、幕府強硬派によって処刑されるところを海舟が反対し、自邸で保護していました。

益岡は西郷の愛弟子であり、もし処刑されておれば、鉄舟の護衛ができないどころか、西郷は幕府を許さなかったでしょう。

 海舟の政治家としての手腕を見せています・

 

 西郷の海舟評「どれだけ智略があるやらしれぬ。英雄肌の人。勝先生には恐

れ入った」

 

 坂本龍馬より姉の乙女への手紙「日本第一の人物。勝麟太郎(海舟)いう人

の弟子になりました」

 

 西郷隆盛の西南戦争が起こりそうになった時、三条実美や岩倉具視から

鹿児島に行って西郷説得を依頼されます。海舟より、「大久保利通(薩摩の

西郷のライバル)と木戸孝允(長州)を免職するなら行く」がと、二人は「そ

れは聞けません」と。

 海舟が使節として鹿児島へとの話は西郷にも伝わりました。西郷は「海舟は

来ない」と言ったとされています。

 

 明治に入って福沢諭吉が海舟を非難します。

 彼の自著「痩我慢の説」を海舟に送ります。その中身を要約しますと、

「戦わずに負けたことは三河武士の旧風に反し、士風に反する。負けても戦うのが痩せ我慢である。更に明治になって敵である新政府の要職につき、官爵

を得るとは何事か。武士社会の倫理のためにも深く悲しむ。」

 海舟よりの返書要約しますと

 「行動の意図は自分の心中にだけあります。毀誉は他人の主張であって、私の関与すべきことではないと存じます。」

 

 真正面からの返事と思えませんが、評論家の江藤淳と作家の司馬遼太郎

は対談の中で、「福沢は世界史の潮流の把握は的確である。しかしジャーナリ

ストであって政治の場で生かされていない。福沢は政治の世界で何をしたか。

していない人間が言っているのはおかしい」。

「学問のすすめ」では(忠義な死は無駄死がある)、(門閥制度は親の敵)と

言い、封建武士社会を非難しながら「痩せ我慢の説」では矛盾したことを言っています。

 

 要するに海舟は政治家であって情勢、場面を勘案して自分が必要と思えば

出ていくのです。

 海舟は武士の存立よりも、主従関係よりも一国の存立を重視したと考えら

れます。

以上

2023年11月12日

 

梅 一声