関白と将軍とはどちらが偉いかの話

 


  NHKの大河ドラマが大好きな知りあいから“関白と将軍とはどちらが偉いか”との素直な質問がなされました。

 こんな事は簡単ではないかと“それは関白だよ”と言おうとして止めました。ことはそんなに簡単でないことに気づきました。

 そこで今回は、この質問への回答がいかに難しいかの言い訳を書きたいと思います。

 お忙しい方は本文の最後の結論だけをお読みください。

  それでは先ずそもそも論からです。

 関白も将軍(正式には征夷大将軍)も江戸時代まで存在した朝廷の官職です。朝廷での官職は官位(位階)と合わせもって序列を決めます。この官位と官職は聖徳太子が定めた冠位十二階(推古天皇11年、603年)を改定して、大宝律令と養老律令において定めたものを基本にして成り立っています。

 官位は一位から最下位の少位まで十段階あり、更に一位から八位までにはそれぞれに正(しょう)と従が分れ、正四位から少少位までには更に上と下に分かれます。都合25段階あります。

 官職は例えば太政官(だいじょうかん)組織名では太政大臣、左大臣、右大臣等、省民部省、兵部省、宮内省等では、輔、国司尾張、武蔵駿河等)では守、介等があり、百ほどの組織で官位を持った官職数は800〜900位ありました。

 例えば、(じゅ)一位(いちい)太政(だいじょう)大臣(だいじん)(しょう)三位(さんみ)大納言(だいなごん)(しょう)四位(よんい)()大蔵(おおくら)(きょう)正五位上衛門督、従五位上大和守と当時の朝廷の官吏は官位と官職があって序列がありました。官位が上の人が上位となります。官職は官位に相当する官職となり、仕事上の権限を持っています。

 さてここで「征夷大将軍」です。この官職は奈良時代に陸奥の蝦夷討伐のために置かれた臨時の職でした。(夷を征する将軍)

 平安時代の初めに任命された坂上田村麻呂が有名ですね。田村麻呂は四位上で「征夷大将軍」に任命されました。(797年)この征夷大将軍は一般の大将や将軍と違い、遠征先で幕府を開くことが出来ました。

この幕府は遠征先で軍事だけでなく行政府を打ち立てることができました。普通、遠征将軍は軍事だけです。行政はその土地の国守(陸奥守等)にあり、権限が分れます。「征夷大将軍」は軍事と合わせ行政権を持つ権限が与えられていました。

 しかし上述のように臨時の職で蝦夷征伐が終わりますと坂上田村麻呂も職を解かれ、以後は源頼朝まで任命された人はいません。

 

 次に「関白」の職です。そうです亭主関白や腕白小僧のもとになった言葉です。

中国で帝に続く第一の臣の職名でした。それを日本にもって来たのです。(天下の万機を「(あずか)(もう)す」)

 従一位の位階で関白の職は臣下としては最高職位で天皇を補佐して政務を執行する最も重職です。

 この職は元々の位階を定めた大宝律令や養老律令にない職種でした。(令外官(りょうげのかん)と言います)平安時代の宇多天皇の時に新たに作り、初めて藤原基経が就きました。(887年)これ以前から藤原家は天皇に次ぐ実力者でしたが、以降この「関白」職は藤原家が独占しました。

 ここで藤原家が同じく独占してきた「摂政」です。この職は天皇が幼かったり、女性天皇の場合に天皇を代理して天皇の執務を執り行う人です。元々は皇族が就任していました。例えば推古天皇(女性)の聖徳太子や斉明天皇(女性)の中大兄皇子などです。平安時代に入り、清和天皇の幼い時に外祖父の藤原良房が「摂政」になったのが臣下が「摂政」になった初めです。(866年)以降この職も藤原家の独占の職となりました。

 この天皇に次ぐ地位である「摂政」と「関白」は両方合わせて「摂関」職と言い、いわゆるNO、2地位は藤原家に固定されていきました。

 「摂政」では藤原道長、「関白」では藤原頼通が天皇をしのぐ実権を有したことで有名ですね。この時代を摂関政治と言っています。

  しかしその後の平安時代後期は天皇が引退した後に実権を有して政治を執る

院政時代(鳥羽上皇、白河上皇、後鳥羽上皇が有名です)となりますが、藤原家の「摂関」の地位、即ち朝廷でのNO、2の地位は変りません。

 そして鎌倉時代の初めに、藤原家内部で「関白」職の座をめぐってもめます。そこで鎌倉幕府はこれを仲裁して、藤原家で「摂関」職に就ける家を五家とします。近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家の五家でこれを以後五摂家と呼ぶようになりました。

 話を「征夷大将軍」に戻します。

 坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が朝廷の律令制度での本来の征夷大将軍の職の内容でした。

 ところが源頼朝が平家に打ち勝ち関東、奥羽を制覇した後、後白河法皇に征夷大将軍に任官したい旨を要望しました。後白河法皇は認めませんでしたが、法皇の没後後鳥羽天皇によって認められました。(これをもって一般的には鎌倉幕府成立としています。1192年)

 それでは何故頼朝は「征夷大将軍」の任官を希望したのでしょうか。これがはっきりしません。当時既に奥州征討(奥州藤原氏)は終わっており、藤原氏の征討を私闘ではなく、蝦夷とみなして討伐するための任官希望とは思われません。

 関東と奥羽の支配権を朝廷に公認させるためと後世言われて来ましたが、頼朝は既に関東と奥羽の国司(知事)任命権や守護、地頭の設置を認められ、朝廷から支配は公認されていました。

 それに頼朝は任官2年後の1194年に征夷大将軍を辞任したい旨申し出ています。

これは朝廷によって押し止められました。

 頼朝にとって征夷大将軍の職は何の意味があったのか、想像するしかありません。例えば坂上田村麻呂がただ好きだったとか。

 しかし鎌倉幕府の北条氏は源家滅亡後の北条政権の名目上のトップ(藤原氏や天皇家出身者)にも征夷大将軍に任官させました。頼朝と同じ征夷大将軍に任官させて頼朝以来の鎌倉幕府の正当性を朝廷に公認させたかったのでしょう。

 この征夷大将軍職は足利尊氏に引き継がれます。尊氏は北条氏の武家の政権(鎌倉幕府)引き継ぎたかったので、後醍醐天皇は征夷大将軍への任官を求めますが、天皇は認めません。これで後醍醐天皇と尊氏は喧嘩して分かれ南北朝時代となりました。尊氏は北朝を打ち立て「征夷大将軍」になりました。

 その後南朝は滅び足利氏の時代(室町時代)となり、「征夷大将軍」職は足利15代の義昭まで累代の足利家の世襲の職となりました。

 

 足利家15代将軍義昭は織田信長に京を追われ足利幕府は終りました。(1573)

 その後の信長の躍進はすさまじいもので、浅井、朝倉を討滅し、本願寺を屈服させ、武田を討滅し、全国制覇は目前と言うところで、本能寺で明智光秀の裏切りにあい、自殺しましたことはご存知の通りです。

 ところで信長は本能寺の変の1か月前に朝廷より「関白」でも「太政大臣」でも「征夷大将軍」でもなりたい職を言って欲しいと言われます。(どの職でも認めると)これを三職推任と言っています。信長は死んでしまいましたのでどう返事したか推測するしかありません。@返事しないうちに死んでしまった Aどれも受けないと返事した。の二説が有力で一般的には@説が受けていますが、今日はA説に注目されています。

 信長の意向はさておき、これから見ると、当時の天皇(正親町天皇)は「関白」も「太政大臣」も「征夷大将軍」も同列と考えていたと考えられます。

 その理由は次のように思います。

 「関白」は地位としては天皇に次ぐ地位ですが、令外の官(大宝・養令律令で定められた官職の外枠の官)で常設の職ではない。「太政大臣」は地位としては関白の下になるが、律令での正規の職ではトップである。「征夷大将軍」は武家の棟梁の意味とともに足利家将軍のように実質関白を越える権勢の職である。

 これが戦国時代での「関白」と「征夷大将軍」の地位だったと言えます。もらう方の価値判断によったのです

  信長の次に覇権を握った豊臣秀吉は、政権の安定、維持のために「関白」職に就任します。(1585年)藤原家(五摂家)の中で「関白職」を争う様子を秀吉が見て、それでは自分がなれば丸く収まると言い出したことになっていますが、天下の覇者の秀吉なら「関白」でも「征夷大将軍」でもなりたいと方になれたでしょう。

 こうなると「関白」と「征夷大将軍」は秀吉が選んだ「関白」の方が地位が上と、この時点ではなります。

 何故秀吉が「征夷大将軍」ではなく「関白」を選んだのか理由ははっきり分かりません。

 「征夷大将軍」になりたかったが、未だ形の上で足利義昭(15代)が「征夷大将軍」であった。しかし義昭が譲ってくれなかった。この説は秀吉の権力からして、まあうそでしょう。

 豊臣家政権の安定、維持のために天皇制を最大限利用するために、武家の棟梁の意味合いが強い「征夷大将軍」より天皇に次ぐNO,2の地位がはっきりしている「関白」を選んだものと考えられます。実際秀吉は関白の命令は天皇の命令であるとして、これに背くものは天皇に背くものとしました。

 秀吉は「関白」を秀頼に譲り「太閤」となりました。この場合の「太閤」は「関白」を引退した人の敬称ですが、実際は太閤秀吉が実権を死ぬまで持ち続けました・

 最後に「征夷大将軍」となった徳川家康です。(1603年)秀吉没後、関ヶ原の合戦で勝利しました。(1600年)

 政権は豊臣家(秀頼)から徳川家康に移りましたが、家康も安定政権を目指すために、「太閤」か「征夷大将軍」の就任を考えたでしょう。しかし「関白」は秀吉の子の秀頼が幼く、未だ就任していないので空いているとはいえ、豊臣家のイメージが強い「関白」職を奪取するには余りにも豊臣家をないがしろにすることが露骨です。そこで空いている「征夷大将軍を」就任を選んだのです。

 源氏しか「征夷大将軍」になれないと説がありますが、この説はもう有力説ではありません。鎌倉時代の将軍は藤原家からも出ましたし、上述のように正親町天皇は織田信長(藤原氏から平家に変える)にも「征夷大将軍」を推任しています。家康は源氏を名乗りましたが、先祖がはっきりせず、名門源氏の出とは言い難いのです。

 

 さあここまで「関白」と「征夷大将軍」について述べてきました。結論としてどちらが偉いのでしょうか。

 時代によって変わります。

 平安時代まではこれは明らかに「従一位関白」が「従四位征夷大将軍」より偉いですね。

 鎌倉時代は源頼朝が「従二位征夷大将軍」となり位階も高くなりましたが、宮中の席次は関白が上です。しかし全国の統治は朝廷と二分する権力は持っていましたので、頼朝将軍は実権では「関白」より上となります。

 鎌倉時代も源氏政権から北条政権となり、将軍は藤原氏からさらに天皇家から迎えます。「征夷大将軍」は北条政権の傀儡です。

 どちらも位だけ高くても実権がありません。偉いのは実権を持つ北条氏でしょう。

 室町時代の足利家は将軍として「関白」を凌駕しました。実態として「関白」は「征夷大将軍」の下位なりました。公方様と言われた足利将軍は天皇に次ぐ地位でした。

 戦国時代に入りますと、足利将軍の地位が地盤沈下してしまいます。正親町天皇、織田信長の時代は、「関白」も「征夷大将軍」も同等の地位となります。

ここからは豊臣秀吉も徳川家康もどちらかを自分の都合で選べたのです。

 どちらが偉いのか天下を制した者が決めました。

以上

2014年11月2日

 

梅 一声