官兵衛の息子黒田長政


黒田官(くろだかん)兵衛(べえ)(よし)(たか) 隠居後(じょ)(すい)、通称黒田官兵衛は今日知られた人になりました。NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」やその前の司馬遼太郎の作品「播磨灘物語」で取り上げられました。

 今回はこの有名人の官兵衛でなくその息子で跡取りの長政について語りたいと思います。

 長政は福岡藩52万3千石の初代藩主です。父親の官兵衛は秀吉から九州の豊前国の六郡(福岡県東部から大分県の北部にかけて)を領する12万石の大名に封ぜられていました。

黒田家が大大名になれたのは関ケ原の合戦で息子長政が徳川家康への功績による恩賞です。

 

 黒田家のルーツです。

 はっきりしているのは長政の祖祖父重孝が播磨国(兵庫県)にやって来て目薬屋を初めて成功し、地侍となり地元の小寺(こでら)氏(御着(ごちゃく)―姫路地方)に取り立てられその後祖父の(もと)(たか)も小寺家に仕え当主(まさ)(もと)に重用されます。

 その子で長政の父親官兵衛は政職の家老の一人なります。

 長政は官兵衛の嫡男として永禄11年(1568年)に生まれます。幼名を(しょう)寿(じゅ)(まる)といいました。

 織田信長が足利義昭(15代足利将軍)を奉じて入京した年です。

 それから10年信長の勢力が強くなり、小寺氏もその家老の官兵衛も信長に服属しました。

 荒木村重が信長に反旗を翻したのは1578年で、予て交際のあった官兵衛が村重を翻意させるため村重の居城有岡城に赴くも、説得に失敗し、逆に拘束されてしまいます。

 信長は官兵衛が帰って来ないので官兵衛が裏切って村重についたと判断し、人質に取っていた官兵衛の子松寿丸(長政)の処刑を命令します。

松寿丸をあずかっていた竹中半兵衛(豊臣秀吉の軍師)が信長には処刑したと虚偽の報告をしました。

 秀吉も半兵衛も官兵衛が裏切るとは考えられなかったのです。

 荒木村重の有岡城陥落後官兵衛は助けられ、裏切りがなかったことが判明しました(1579年)。

 長政は九死に一生を得たのです。

 官兵衛も長政も生還しました。ここはドラマになるところです。

 

 この後官兵衛は秀吉への与力(実質家来)として秀吉軍の軍事作戦について軍師の役割を担います。

 

 ここで明智光秀の謀反で織田信長は本能寺で倒れます。

 ご承知のように秀吉は山崎での戦いを制し光秀を倒して天下人への道を進みます。

 多くの武将が秀吉に服属し家来になります。

 官兵衛も長政も実質的にこれまでも家来でしたからそのまま秀吉の家来になりました。

 

しかし秀吉没後、政権は徳川家康派と石田三成派に分かれての闘争となります。この決着が関ケ原の戦いになって行くのです。

関ケ原の戦いの勝敗は豊臣譜代の有力武将(大名)の中に絶対的に三成憎しの一派が出来上がっていたことです。この一派が家康についたことで決まりました。

 

この反三成派の代表が武闘派七将と言われる人たちです。

7人ですが2グループに分けましょう。

第1グループは加藤清正、福島正則、浅野幸長、加藤嘉明で、秀吉子飼いの豊臣家親藩の武将です。幸長は父親が秀吉の正妻ねねの義理の兄で、豊臣家二代の親藩です。

第2グループは池田輝政、黒田長政、細川忠興となり、池田は元信長の家来、細川も元信長の家来、黒田は秀吉に近い元信長の家来で、豊臣家の外様と言えます。

この七将が一致して打倒三成を掲げた理由は、朝鮮出兵の折、三成が目付として彼らを軍令違反ありとして秀吉に中傷し、秀吉からお咎めを被ったことへの恨みです。

家康は秀吉没後彼らを無罪にしました。

彼らは豊臣への恩顧の気持ちはありながら、三成憎し、家康への感謝の気持ちがありました。

七将は大名としては中堅の規模ですが、いずれも歴戦の勇士です。戦で家康の味方になれば家康の勝利は見えてきます。

 

天下分け目の関ケ原の合戦は、家康と七将(加藤清正は地元の肥後)が会津の上杉征伐で関東に遠征中に三成が打倒家康で立ち上がったことから起きました。彼らが下野(栃木県)小山に在陣中の時です。

家康が京、大坂に戻って三成と戦って絶対勝つためには、七将が味方になってくれることが最も大事です。

家康は七将の内、第2グループの黒田長政、池田輝政、細川忠興は父親以来昵懇で味方してくれるものと確信していました。

しかし第1グループの福島正則は反三成とは言え秀吉の子飼いです。味方になってくれるか確信を得られません。尾張(愛知県)の清須城を居城とする正則が三成(西軍)につきますと大坂を目指す西上に差支えが出てきます。

 

しかし諸将を集めての上杉氏征伐の途中の下野国小山会議で福島正則が一番に「家康に味方して三成を討つ」と言明しました。これによって真田昌幸以外の全武将が家康味方をその場で決します。

秀吉子飼いで加藤清正と並ぶ最も勇猛な武将福島正則が家康に味方です。外の武将も豊臣家への倫理感はなくなります。

 

実はこれは裏がありましてこの会議の前に黒田長政が正則を説得したのです。

二人は朝鮮でともに戦い強い信頼関係にあり、家康味方を会議で一番に発言してほしいと頼み、正則が受け入れたのです。

その後長政が西に向かって出発後に家康は正則の去就が未だ心配で小山に長政を呼びもどして正則が本当に味方してくれるか確かめます。

長政は「自分の命にかけて正則が家康味方を保証する」と言明します。

 

次に長政は三成派の調略に動きます。

それは小早川秀秋の東軍への寝返り工作です。小早川家は毛利一族ですが、

秀吉が秀秋を養子に送り込みました。秀秋は秀吉正妻のねねの甥です。最初は西軍につきました。

小早川家は35万石の大名で関ケ原合戦でも1,5万人を動員できる勢力があります。

ねねの説得で関ケ原の合戦中に東軍に寝返ったと言われています。

それもあったかもしれませんが、なにせ秀秋は頼りない人でどちらにつくか迷っていたのです。

長政は黒田家と親戚になる秀秋の家老を説得して東軍に寝返る約束を取り付けます。

合戦中の東軍への寝返りは大きく、東軍勝利を決定的なものにしました。

 

三成の策動に乗って西軍の大将に祭り上げられた本家毛利輝元に対して、毛利一族の重鎮の吉川広家は「家康への対戦はまずい」との見解で、当初より

家康味方を内通し、輝元にも軍を引くように説得していました。

しかし家康にとっては広家の内通は確証を得られず、対応に窮していました。

ここでも長政が登場します。広家と親の官兵衛とは昵懇で書面で情勢のやり取りがあります。長政は広家の家康味方の本心を知り、そして広家の忠告を受け入れ輝元が三成から離れたことも知り、それを家康に報告しました。

 実際、広家は関ケ原では軍を動かさず、毛利家の軍等2万人以上が参戦しませんでした。輝元も関ケ原に出陣せず敗戦後、大坂城を退城しました。

 

 そして長政の関ケ原合戦での武将としての活躍です。

 小早川秀秋が東軍に寝返る前には東西両軍が接戦の場面もありました。なん

と言っても大きな手柄は、黒田軍が石田軍の大将、三成の家老島左近を討ち取

ったことでしょう。左近は当時全国区で有名な武将です。

 合戦での第一の功労は誰か、寝返った小早川秀秋と言う人もありますが、敵

三成の陣地を崩し三成に次ぐ敵将を討ち取った長政は当時の恩賞査定では最大に評価されるものです。

 

 それで家康の戦後の恩賞査定で黒田長政は12、5万石から39,8万石加増で52,3万石です。

 加増額も知行高も一番ですが、他の6将に比べてさして差はありません。

 長政は戦場での勲功だけでなく、すべて彼の調略によるものとは言えないかもしれませんが、福島正則、小早川秀秋、吉川広家を味方にした功労者です。

 更に九州で、豊前中津の父親官兵衛が西側の大友義統を破り、肥後熊本の加藤清正とともに西側地盤を席捲した功績があります。

 加藤清正はそれで加増されたのです。

 

 長政の西側への調略の功績と、官兵衛の九州での功績が加味されていないと後世言われます。

 しかし黒田親子には不満はなかったようです。

 

 もちろん査定に当たっては長政の関ケ原の本戦での手柄が一番評価されました。これは他の武将も認める手柄です。

 

 最後にこの親子の逸話です。

 関ケ原合戦が終わり、二人は対面します。

 長政より父親官兵衛に報告します。

 「家康が自分の功労に感激して手を握ってくれた」

 官兵衛より長政へ

 「どちらの手か」、長政いわく「右手です」

 官兵衛、それを聞いて「その時お前の左手は何をしていたのか」

 そうです。官兵衛は左手で家康を刺し殺すことが出来たではないかと言っているのです。そうすればお前は殺されても家康が死ねば自分黒田官兵衛が天下をとると。

 これは後世の作り話でしょう。

 

 如水は慶長9年(1604)に没します。

 元和元年(1615)の大坂の夏の陣も終わり、豊臣家は絶滅です。家康は翌年没します。二代目秀忠時代になります。

 長政は元和9年(1623)56歳で没します。

 長政は調略で家康勝利に計り知れない恩義をうりました。

長政は「この勝利は自分の智謀によって福島正則、小早川秀秋と毛利家を味方につけたことによるものである。家康、2代秀忠は分かっているがそれ以降は分からなくなり、黒田家がないがしろにされる時があるかもしれない。関ケ原での勝利が長政の功績によるものと記しておく」との遺言状にしたためました。

 子孫が黒田家落ち度を言われて取り潰されそうになった時に使うようにと。

 

二代目息子の忠幸が家来とトラブルで御家騒動を起こしますが安泰でした。

 黒田家は明治まで続くのですが長政の血筋は六代目までです。後は養子が継ぎます。

以上

 2021年8月14日

 

梅 一声