神様になった管原道真(前編)


 天神様・天満宮とその祭神管原道真の話です。

 「東風(こち)ふかば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな」

の和歌、「ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ、どうぞ通してくだしゃんせ・…」わらべ歌、通りゃんせでよく知られています。

 

 平安時代の10世紀終わりから11世紀にかけての話です。藤原氏北家の勢力が天皇の権力を上回ろうとしていた時代です。

 この頃朝廷での権力者は天皇以外では上から摂政・関白、太政大臣、左大臣、右大臣となりますが、摂政・関白、太政大臣は常設の役職ではありませんので、左大臣、右大臣の順となりますが、大臣になれるのは貴種お言われる権門勢家です。

 当時の権門勢家は藤原氏と源氏((みなもと)そして皇族だけです。源氏も皇族の臣籍降下のお家ですから皇族関係と言えます。

 中でも藤原氏は摂政関白を出せるお家として天皇に次ぐ勢家でした。

 

 さてこの時代に生きた(すが)原道(わらみち)(ざね)が死没後なぜ天満宮・天神様の祭神となったかです。

 大昔、神様は人ではなく神でした。人を神様にしたのは桓武天皇です。謀反の罪で死んだ兄の他部(おさべ)親王と弟の早良(さわら)親王です。二人は皇族(皇太子)です。

 民間人で神様になったのは管原道真が初めてです。その後は平将門、豊臣秀吉、徳川家康と続きます。

 

 それでは一般人で初めて神になった管原道真の人生「一栄一落これ春秋」(道真の漢詩から)と神様道真をたどってみたいと思います。

 

 管原家は学者(儒家)の家で祖祖父、祖父、父親の(これ)(よし)も学者で大学寮で(もん)(じょう)博士でした。今で言えば東大の教授でしょう(定員は二人です)。祖父は昇進して従三位に父の是義は従三位参議(公卿)にもなりました。

 しかし貴種ではありませんので大臣にはなれません。文人官吏としては最高位です。

 道真は承和12年(845)の生まれです。18歳で試験を受け合格して文章生(もんじょうしょう)(東大に合格のようなもの)になり、その後試験を受けて合格して文章得業生(大学院生のようなもの)となります。そして極めて難関と言われる対策の試験に合格します。25歳の時です。秀才と言われる人も30歳代ですので異例のスピードです。

 正六位上で少内記(中務省(なかつかさしょう)で詔勅、宣命の起草)に任官します。29歳で早くも(じゅ)五位下(ごいげ)に叙爵されます。五位以上が清涼殿に昇殿が許される貴族です。

 元慶(がんぎょう)元年(877)、33歳で文章(もんじょう)博士となり代々の職位を得ます。道真の学識は藤原氏北家の宗家、実力者の太政大臣藤原基経の役にたち、ひいきにされます。

 仁和(じんな)2年(886)讃岐守(香川県知事のようなもの)辞令がでます。本人はそのまま中央での官僚を望んでいたようですが、多くの官僚が経験するポストです。赴任します。

 赴任中に新天皇宇多と太政大臣藤原基経との間で阿衡(あこう)事件が起きます。

 宇多天皇は太政大臣基経を新職位の関白に任命にあたり、「宜しく阿衡の任を以って卿の任となすべし」との(みことのり)を出されました。

 この「阿衡」の語はただの位で職掌がない、即ち自分は棚上げにされた職位にされたとして基経は政務を放棄したのです。

 これに学者の藤原佐世、三善清行、(きの)長谷(はせ)(ゆう)が基経に同調しました。これは実力者基経への追従でしょう。

 基経は詔の原稿を作成した(たちばな)広相(ひろみ)(正四位上参議)の罰を申し出ます。

 そこに讃岐に赴任中の道真の見解が届きます。「語は原義からずらされて使われることがある。阿衡が全てを統括する実態のある職位として解釈してよい。」

 「このようなことで学者が罰せられるのなら学者は公文書の原稿は書けなくなる」

 宇多天皇と橘広相との婚姻関係(広相の娘が宇多天皇の女御)による緊密さへの牽制からごねていた基経でしたが、道真の見解が出た所でもう矛を収める頃と考えたのでしょう。関白職に就きます。

 宇多天皇は道真のおかげで大変助かりました。

 

 ところが寛平3年(891)基経は死没します。宇多天皇の親政が始まります。

 宇多天皇は、任期があけた道真を蔵人頭(くろうどのとう)(秘書室長)に抜擢します。

 翌年には従四位下に、更にその翌年には参議(公卿)に任命します。

 そして道真に遣唐使の任命が下ります(寛平6年 891)。

 しかし道真は唐が乱れており、行きつくことが困難であるとして遣唐使派遣の廃止を建議し、廃止が決まります。

 昇進を重ねます。

 寛平7年(895)51歳で従三位中納言になります。先祖に中納言になった人はいません。参議も議政官ですが、閣僚は中納言、大納言、大臣です。

 寛平8年には権大納言になります。

 この時基経の息子の時平は25歳ですが道真の上位の大納言になります。貴種藤原氏の嫡男は若くてもこの地位につきます。

 この年、道真の長女が宇多天皇の女御になります。

 そして寛平9年(897)宇多天皇は息子・皇太子(あつ)(きみ)親王=醍醐天皇に譲位します。醍醐天皇は元服して13歳で即位します。

 宇多天皇は時平と道真に後見を命じ、正三位に昇進させます。

 宇多天皇は譲位した後も実権を持ち、時平と道真の二人に操って政治を行うつもりであったのです。

 しかし宇多天皇は道真を自分のもとにおいて政治主導を行い始めます。道真の娘を自分の第三皇子済世(ときよ)親王の室にします。

 時平は妹を醍醐天皇の女御を望みますが、宇多天皇には認められません。

 時平は宇多天皇・道真主導に対抗するために醍醐天皇を抱え込みます。

 

 ここで道真の九州の大宰府権帥への左遷人事が突如行われます。

 昌泰4年(901)の正月25日のことです。

 同月の7日に道真と時平に従二位の昇進が発表されたところです。

 醍醐天皇より左遷の宣命が下ります。

内容を現在語で抄訳しますと「上皇(宇多天皇)の御意に欺き天皇(醍醐)の廃位を行おうとした。父との子の間の慈しみを離間させようとし、兄(醍醐)と弟(済世親王)の愛を破ろうとした。皆天下の知る所。法律のままに罪を罰しなければならない。思う所あり、大臣を停めて大宰権帥にする」。

 

 天皇の廃位を企てた罰なのです。

 重ければ死罪、又は配流です(この頃貴族への死刑は行われない慣習)

 宇多上皇は急いで内裏に向かいましたが、内裏内の天皇の近臣によって中に入れてくれません。

 道真の九州の大宰府発向は2月3日に厳重な警戒のもとでなされました。

 ここでかの有名な和歌が道真によって詠まれます。京都の自宅を去るにあたっての歌です。

冒頭の「こち(東風)ふかばにほおいおこせよむめ(梅)はなあるじなしとてはる()をわするな」

 道真の息子4人と関係者がそれぞれの地へ配流となりました。

 

 人事は右大臣から大宰権帥への左遷ですが実態は配流に近い処置でした。

 

先ずなぜ道真が左遷人事(実態は配流)の憂き目にあったのかを見てみます。

 

 それでは事件の真相です。古今色々言われていますが整理しますと次の説となるでしょう。

 ⓵廃位の策謀はなかった。道真は無実。時平の策謀。醍醐天皇の廃位への過

剰反応

  北畠親房、林羅山、貝原益軒、菊池寛、徳富蘇峰、現在でもこの説の人は多いです。

 

 ②道真は関与しなかったが、宇多上皇の側近の源善が醍醐廃位を画策。

  大日本史(水戸藩)

  

 ③道真は関係しなかったが、宇多上皇が廃位を主唱。

  頼山陽

 

 ④道真も宇多上皇の下で廃位計画に参画

  最近はこの説の研究者増えています。日本の時代史5「平安京」吉川真司

 

 この事件が起こる頃の政治情勢は宇多上皇・道真VS時平・醍醐天皇(時平に抱き込まれる)になっていたのです。

 道真は右大臣を辞したいと申し出ていましたが、実際は、宇多上皇と宇多の第三皇子済世親王とに娘を嫁がせ上皇とは他を許さぬ密接な関係でした。

 一方時平は妹の醍醐天皇への入内を認めてもらえないことあり、宇多・道真に脅威を感じていたでしょう。醍醐天皇を味方にする必要があったのです。

 そこに時平のもとに、醍醐天皇廃位のうわさが聞こえてきました。

 醍醐を説得して宇多・道真に対し決起したのです。

 道真が宇多の破格の寵愛を受けてきたことは間違いありません。そこには他の貴族のねたみもあり、学者仲間の三善清行からも学者の家から大臣になった人はおらず、辞任を忠告されていました。

 宇多上皇や道真が廃位を計画していたかははっきりしません。

 しかし藤原家は代々政治の主導権をとるためにライバルとなり得る天皇の近臣の粛清をしてきました(承和の変、応天門の変、阿衡問題)。

 宇多と道真はしてやられたのです。

 醍醐は父親である宇多を罰するわけには行きませんし、首謀者とした道真を配流には出来ません。又徹底来な追及もしないで関係者は左遷という処分にしました。

 普通は関係者を拷問をかけてでも白状させ首謀者を見つけるのが普通です。しかしそれをやって父親をあぶり出したとしても処分に困るからです。

 ただ両者の対決から時平・醍醐が立ち上がったのが真相でしょう。時平のただの策謀とは言えないでしょう。

 時平の決起の成功は左大臣、右大臣に続く大納言の源光外貴族の多くを味方につけたことにあります。これは貴族の道真出世へのねたみからでしょう。さらに学者仲間も時平についたことでしょう。

 

 この事件を昌泰の変と言っていますが、この事件以降宇多上皇は力を失し、時平が実権を掌握します。

 

 道真が大宰府へ左遷の後、そして死没後天神・天満宮になって行くところは後編で語りたいと思います。

以上

2021年12月12日

梅 一声