神様になった管原道真(後編)


 

道真は大宰府の(ごんの)(そち)として左遷されました。配流の刑に近いものでした。

その頃皇族が任命されます大宰(だざいの)(そち)も次席の大宰権(だざいのごんの)(そち)も現地に赴任しない((よう)(にん))で、職務もありません(仕事は現地の下僚の大弐以下で行います)。

 俸給もわずかで、住まいも大宰府で使われていなかったぼろやでした。

 軟禁ではないでしょうが外にも自由に出られません。

 道真は廃位問題に関わっていなかったのか、それとも関わっていたか、そもそもそんな問題はなかったのか分かりません。

 ただ言えることは政界は実権を掌握していた宇多上皇・右大臣管原道真VS左大臣藤原時平・醍醐天皇の構図であったことは事実でしょう。

 宇多と道真は決起した藤原時平・醍醐天皇にやられたのです。

 道真は公卿やその他貴族にねたまれ、学問の友人、知人も時平につきました。追従せざるを得なかったかもしれません。

 当時、道真とともに名高いが学者に三善清行がいます。彼は時平派とみられています。道真には予て学者で破格の右大臣になったのだからもう辞任するようにと忠告していました。していればこんな事件は起きなかったのですが。

ただ事件後のふるまい(道真を逆臣とする)から三善清行が敵か味方かはっきりしません。

 もう一人(きの)長谷(はせ)()は道真の部下で親友です。長谷雄は宇多天皇にも醍醐天皇、時平にも関係が良い仁です。

 この人たちのお陰で道真の門下生(私塾の菅家(かんけ)廊下(ろうか)や大学寮)にはお咎めなく彼らの左遷はありませんでした。道真の門下生多くが官についており左遷させますと政務に混乱を起こすことも考えられたかも知れません。

 

 望郷の念にかられながら、京に戻れる日を信じて過ごしていました。

 専ら漢詩を作り紀長谷に送っていました。親しかったのですね。この詩集を

菅家後集(かんけこうしゅう)」と言います。

 道真は10数名の子女をもうけていたようですが、幼子の男の一人と女子一人を大宰府に連れて行きました。

 実質配流の身でどうして幼子を連れて行ったのか分かりません。直ぐに帰れると思ったのかも知れません。

 ところが男の子が亡くなります。

 悲しみながら作った七言絶句の漢詩のこしています(菅家後集)

 漢詩を日本古典文学大系から読み下します。

   床の頭に展轉(てんてん)して

   壁に(そむ)けた(かす)かな(ともしび)に夢も成らず

   早き(かり)も寒いたるキリギリス()も 聞くに一種(いっしゅ)

   ただ童子の書を(よむ)(こえ)のみ無し

  

 童子(我が子)が死んでしまった悲しみの詩です。年齢は分かりませんが

もう書の勉強を始めた年頃でしょう。

 注の虫のキリギリスの漢字は今は使われない漢字で転換出来ませんでした。

  

左遷から2年の延喜3年(903)2月に59歳で現地で病没しました。

 

 それでは大宰府での道真病没後です。

 亡くなった遺体を大宰府から東北方向の四堂の地に埋葬されました。その地に門弟によって祇廟が建てられ、そこに安楽寺が創建されました。その後安楽寺天満宮、太宰府天満宮と言われるようになるのです。

 

 さて一方京では宇多上皇の力はなくなり、左大臣時平の独裁政権です。妹も醍醐天皇に入内させました。

 ところがその時平が延喜9年(909)、道真死没の6年後に39歳の若さで病没します。道真の怨霊によるもとのうわさが立ちます。

 醍醐天皇の命で、道真の霊の鎮魂のため安楽寺に社殿を造営します。

 そして延喜23年(923年)皇太子保明親王が21歳で亡くなります(母は時平の妹)。

 道真の怨霊によるものと言われます。

 醍醐天皇は同年、従二位大宰権帥管原道真を右大臣に戻し、正二位を贈り、道真の罪を否定しました。

 しかし3年後の延長3年(925年)保明親王の子皇太子慶頼(よしより)(母親は時平の娘)5歳で亡くなります。

 さらに延長8年(930)宮中清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫外2人が焼死します。

 続いて同年醍醐天皇が病没します(46歳)

 宇多上皇(法皇)は翌年承平元年(931)に亡くなります(65歳)

 

 これで事件での関係者はなくなりました。

 時平の後は弟の忠平が継ぎます。時平の息子の筋は途絶え、娘の子も亡くなり天皇になれませんでした。藤原宗家の後は弟の忠平が継ぐことになります。

 醍醐天皇の後は息子で保明親王の弟の朱雀、村上天皇と続きます。

 

 天慶3年(940)頃より京都で託宣があったとして北野に道真の(ほこら)を構える者が出てきました。

 天暦元年(947)村上天皇の時、道真の祠を建てます。これが北野天満宮となっていきます。

 道真は怨霊としてではなく神として祀られたのです。

 皇族でない一般人を神とした最初です。

 

 大宰府では安楽寺天満宮に別当職がおかれ、管原家の人が代々勤めることになりました。後に太宰府天満宮と呼ばれます。

 更に時代は下って一条天皇時の正暦4年(993年)亡き道真に太政大臣正一位を贈りました。

 

 藤原時平、醍醐天皇亡き後も天皇家と藤原家は道真を神としてあつく崇めます。

 これは何かです。

 怨霊への恐れから自家の守護神にしたのです。

 怨霊の先を醍醐天皇と時平の身内にだけ背負わせ、天皇家と藤原忠平(時平の弟)の筋とは無関係をこしらえました。

 道真を神にして守護神に祭り上げたのです。

 

 このようにして天皇家と藤原家は道真を神にして100年もって鎮魂に成功したとします。

 一方ご存知のように管原道真を祭神とする天神様や天満宮は一般庶民からも崇拝され、全国各地に神社が創建され広まります。今日では1万数千社を数えるとされています。

 どのようないきさつから庶民信仰の対象になって行ったのでしょう。

 道真は怨霊でした。怨霊は恨みをもつ特定の人にたたります。しかしこの怨霊が関係のない一般庶民にも禍をもたらすのです。

 当時は雷の被害が大きく、これは道真の霊によるものだと言われるようになります。

 清涼殿での雷での貴族の死亡事故からです。

 雷電信仰は以前よりありました。雷神は人畜を殺傷する荒ぶる神でもあるとともに、雨をもたらし五穀を実らせる善神でもあるのです。

 庶民は道真の霊を鎮めるために又道真を雷神と見立てて、北野天満宮や太宰府天満宮にお参りするようになります。

 全国で広まり、天神様や天満宮が創建されていきます。

 10世紀の末には当時の学者たちが学問の神として尊崇するようになり、庶民へ広がります。今では受験合格の神として有名ですね。和歌の神、書道の神としても有名ですが、真筆は残っていません。太宰府天満宮にあると言われて来ましたが、明治初期の廃仏毀釈騒動で消失したと伝わっています。

 鎌倉時代には正直を守る神、国家鎮護の神、渡唐天神(道真は亡くなった後に唐で禅宗学んだと、禅僧たちの言い伝え)にもなります。

 

 その後室町時代15世紀半ばより天神信仰は下火になります。

 北野天満宮は消失し、太宰府天満宮もすたれます。

 戦国時代の末期の16世紀末より戦国大名の小早川隆景、豊臣秀吉などが領地を寄進し本殿を再建しました。

 北野天満宮は豊臣秀頼が再建に尽力しました。

 以後江戸時代は全国の天神・天満宮は一般庶民の信仰にも支えられ明治を迎え今日も人気の神様です。

 

 道真亡き後の管原家です。地方に左遷されていた息子3人は京に戻され元の職位につきました。

 以後代々学問の家として、四、五位で文章博士や諸国の守の職位について行きました。

 

 ここで天神(てんじん)様や天満宮の意味です。

 天満(てんま)大自在(だいじざい)天神(てんじん)とも呼ばれます。

 天神(てんじん)は道真の怨霊と神様の総称の天神(てんしん)とを重ね合わせた火雷天神のことと言われています・

 天満はてんまで天魔でしょうか。

 自在は観音菩薩で、当時から江戸時代まで神仏習合ですので天満大自在天神と呼ばれました。

 

 菅公伝説より、牛の話です。

 太宰府天満宮の境内には青銅の臥牛が四つあります。言われは、道真の生誕と没年が丑の日。

 道真が時平の手で暗殺を謀られた時に公の牛が暗殺者を突き殺した。

 遺骸を大宰府から四堂辺りに葬らんとしたところ牛が途中で止まって動かず、そこでその地を御霊所とした。その後の太宰天満宮の地となります。

以上

 

 2022年1月12日

 

梅 一声