殉死と保科正之 |
今時「殉死」と言われても何だそれ、と思われる方も多いかと思います。
「殉死」とは広辞苑では“主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること、追い腹”となっています。
江戸時代初期に流行した「殉死」は病死した主君を追って自殺するとなります。
題名の保科正之は江戸時代初期の四代将軍家綱時世の大老格の仁で徳川親藩の大名です。
この仁が主君の死で「殉死」したのではありません。逆です。老中より格の高い大老として「殉死」を厳重に禁じたのです。
以後江戸時代「殉死」はなくなりました。
ただ、明治天皇が亡くなった時に、陸軍大将乃木希典(まれすけ)が殉死しました。以後は後に続く「殉死」は今日までないと言って良いでしょう。
本稿ではこの「殉死」とは何か、何故江戸時代の初期に流行したのかを探って見たいと思います。そして乃木希典の殉死とは何だったのかを。
江戸時代初期の「殉死」と似たような形態が古代にありました。王や貴人が病死したときに、近侍に侍っていた召使が強制的に死者の墓に生き埋めにせられて葬られたのです。
これは卑弥呼が没した時のことを魏志倭人伝(当時の中国魏の国の史書)に載っています。この死は「殉死」ではなく殉葬と言うのが正しいようです。
又、日本書紀の垂仁天皇の項に、死者に殉ずることを止め、代わりに埴輪を埋めたとあります。
次に、城や館を敵に攻められ追い詰められて主君と共に自殺(切腹)する形態です。これは戦死であって「殉死」の範疇に入れません。
鎌倉幕府滅亡に際して執権北条高塒と共に数千人の武士が鎌倉で自刃した例が有名です。
さて江戸時代初期に流行した「殉死」です。
時は慶長12年(1607)、尾張清洲城主松平忠吉(徳川家康四男)の病死に際し、近臣の3人が殉死しました。
これを誰かともなく忠義の行動として言われ、美風とされ、「殉死」の流行の始まりとなりました。
この後多くの大名が病死するたびにその寵臣と言われた側近(小姓など)が「殉死」しました。
例えば、
・慶長12年(1607)結城秀康没の際の側近2人、
・寛永9年(1632)2代目将軍秀忠没の際の西の丸老中(森川重俊)、
・寛永9年(1632)3代目将軍家光没の際の元老中(堀田正盛)、元老中(阿部重次)ほか側近又は元側近3人、
・正保2年(1645)細川忠興没の際の側近等の5人
あげれば枚挙にいとまがありません。
それではどうゆう理由で主君の後を追って自殺したのでしょうか(切腹)。
主君よりの御恩(知行、扶持、給料)が厚いわりに自分から主君への奉公(働き)が出来ていないと自覚していた人々です。
戦国時代までの武士は主君への奉公は戦場での働き(手柄)によったのですが、戦国時代が終わってから雇われた者は戦場での働きの機会が少なく、本来の戦場での奉公が出来ません。
若い側近(小姓)は主君に可愛がられ扶持が増え、更に老中、家老、重役に取りてられますが、戦もないので御恩返しの奉公が足りないと自覚していた人々がいます。
この主人からのあまりにも大きな厚恩の自覚が大きな理由の一つです。
故に戦国時代に既に雇われ、戦場で活躍した武士は御恩と奉公のバランスが取れていると考えるので主君が死んでも「殉死」はありません。
さらに主君と生活を共にして互いに情愛を持って接してきた人々です。寵臣の側近と言われる小姓たちです。
主君と衆道(男色)の関係にあった人々が含まれます。こうゆう人々の「殉死」は情愛の念が大きかったでしょう。
この外に、仕事上での落ち度で本来切腹のところを許された。病気で奉公できなかったとして、それに報いるために「殉死」する者もいました。
それではどんな身分、職種、格の人が「殉死」を選んだでしょう。
一部例外を除いて老中、家老、重臣はいません。戦場での働きのない若い小姓たち側近が多いのです。
例は少ないのですが、家光が没した時に元老中が「殉死」しましたが、この人は家光の小姓上がりで、若い時に衆道の関係にありました。情愛からの「殉死」と言われています。
現役老中が一人「殉死」しましたがこの人は家光の弟忠長の反乱を未然に防ぐために忠長を切腹させた人で、この密命を一緒に墓場まで持って行ったと言われています。大変な事件で処断には二人の一体感があったのでしょう。
この外にたいした理由でもないのに軽輩の武士が「殉死」する場合があります。
例えば普段主君と口もきけない軽輩の武士が、狩りの折などでお褒めの言葉をかけられ、その後主君が病死したときにそれを恩義と感じ「殉死」するのです。
こうなったらきりがありません。
主君も幕府や藩の幹部も一応止めますが、結局承認してしまいます。残された家族に特に昇進もありませんが、お咎めはありません。
大名が死んだときに殉死者が多い方が忠臣が多かったとの評判がたちます。
「殉死」は幕府、藩の幹部を通り越して自分と主君と直接結びつけることが出来る、主君との一体感をアピールできます。
主君のため戦死がなくなった江戸時代に入りもう「殉死」は側近の小姓や軽輩の武士の間で流行化していきます。
この異常な武士社会の社会現象をぴたりと止めた仁が現れました。保科正之と言う仁です。
二代将軍徳川秀忠の四男で三代将軍家光の弟です。会津23万石の藩祖です。家光の命で、家光亡き後四代将軍家綱の補佐役として大老格で幕閣に参与しました。老中より格上です。
「殉死」」のこれまでも悪弊をただすべく幕閣は苦心してきましたが、結局新将軍(老中)、新藩主(重臣)がその行為を暗黙で了承してしまうので、後を絶つことが出来ません。
保科正之は武家諸法度の改定に際し、「殉死」の禁止を強く主張し、宣言しました。
それでも寛永8年(1668)、宇都宮11万石藩主奥平忠昌の死に際し、家臣某が「殉死」しました。
正之は直ちに処断します。
某の二人の子を斬罪、忠昌の嫡男は一万石の減。
これには世間は驚きました。今までは禁止と言っても暗黙に認められていたからです。
何故このような厳しい処置がとられたかについて表向きは「殉死」は不義無益としています。
儒教の「仁義礼智信」の義に背く野蛮な行為である。(古代の召使の生き埋めの行為に派生)
主君が死ねば一緒に死ぬは主君とのみの一体感で、幕府、藩の幹部に対する反抗である。
家臣の忠誠心は主君個人より「家」に仕えるべきである。
「殉死」は政権をもつ武士社会への反体制運動である。
この禁止の実行は「殉死」暗黙していた家光時代の有力幕閣が亡くなり、保科正之の実権が行使出来た結果です。
そしてこの処断により、これ以降江戸時代「殉死」はピタリと止まりました。
ところが明治天皇の崩御に際して突如「殉死」が現れました。陸軍大将乃木希典(まれすけ)と夫に従ったその夫人です。
理由は「西南戦争(西郷隆盛の反乱)で軍旗をなくしたにも関わらず許され登用された」と遺書に残されています。
軍旗事件や希典が明治天皇の信頼が厚かったことはそうでありましょうが、その理由だけでは世間は納得できず、後世の人は日露戦争で二〇三高地の戦いで多くの兵隊を戦死させたこともあるのだろうと言っています。
しかしこの人が「殉死」しますと日常生活をお世話していた本当の側近たちの立場がありません。
当時賛否両論が半ばしました。
森鴎外の「阿部一族」が世に出ました。鴎外は反対派です。小説の内容は殉死した側近の阿部は世間からの圧力で「殉死」してしまったと。
結局明治天皇の「殉死者」は乃木希典(夫妻)だけです。
乃木希典を置いておくと、「殉死」は徳川三代頃までの武士社会の異常現象でしょう。
最後に徳川家康が元和2年(1616)に病没した際には「殉死」は一人も出ませんでした。家康からの御恩(知行、扶持)は奉公(戦場での手柄)した家臣に適切に与えたからです。もらった家臣も当然として受け取りましたから。恩と奉公の量は同等でした。
以上
2018年6月25日
梅 一声
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