女王卑弥呼は誰の事 |
弥生時代の晩期の人で、2世紀末から3世紀半ば位に活躍されたことが中国の正史であります三国志の魏志倭人伝の邪馬台国(やまたいこく)の中に「卑弥呼」(ひみこ)が出てきます。倭人は日本人のことで、当時そう呼びました。 日本の国史の日本書紀の神功皇后の項には「倭の女王」と魏の国(中国)との間に国交があったことが記されています。 しかし倭の女王が卑弥呼であるとは記されていません。又倭の女王が神功皇后のことか、両者が同一人物なのかはっきりしません。 日本書紀は8世紀初めに書かれた書で全体的に不確かな記事が多く、特にこの時代は神代の時代の延長で現実的な話と思えない記事が多くあります。 こうなって来ますと女王卑弥呼とその時代のことはその時代の中国の政権(魏・蜀・呉の三国)で、倭国と国交のあった魏のことを記した魏志(正史)の中に書かれた倭人伝に頼ることになります。 魏の国ことです。後漢が西暦220年に滅亡して、その後魏・蜀。呉が立ちます。三国時代です。この三国時代の正史はその後政権であります晋の時代に作成されました(3世紀末)。 これが三国志です。この中の魏書―東夷伝―倭人の項に日本の当時のこと(倭国、邪馬台国、女王卑弥呼等)が記されているのです。魏志倭人伝と言われています。 魏・蜀・呉の三国が滅亡してまもなく作成された書ですので信頼性は高いと言えます。 原文は漢文で2千字位と長いので、主なところを要約します。 「倭人(日本人)について: 東海大海の中、国の中に百余国ある。その内、対馬国、一支国、末盧国 奴国、不弥国、投馬国が邪馬台国の女王卑弥呼によって統率されている。 女王卑弥呼: もともとこの国は男が王であったが、倭国が乱れて、闘争が続き、一女子 を共立して王となした。名を卑弥呼という。 鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫はいない。男弟が治政 を助ける。碑千人が侍る。兵をもって守衛する。 京初2年(西暦238年)、女王は家来の難升米等を魏に遣わす。 卑弥呼は魏王より「親魏倭王卑弥呼」の称号を得る。 その後卑弥呼と魏との交流あり。 京初8年(244年)卑弥呼はすでに死んでいた。塚は経百余歩、殉葬す る奴婢百余人。(殉葬:強制的に殉死させる) 卑弥呼の亡き後男王が立ったが、国乱れ、又女王を立てる(卑弥呼の宗女 名を壹與(いよ)、13歳。 壹與も魏に使者を送る。」 魏は265年晋によって滅亡しますので魏志ではこの後の倭国(日本)についての記載はありません。 この後中国は晋の時代に入りますが、国が乱れて政権が分かれます。 その後の中国史の中でのこの時代の日本についての記述は、この魏志倭人伝がもとになります。 この時代(卑弥呼)以前の日本についての記事は古くは前漢の時代の正史漢書に「楽浪郡の海中に倭人あり。百余国」があります。漢は紀元前202年から紀元82年の政権で、漢書は紀元82年に作成されています。 日本のいつのことを書いたのかは分かりません。紀元前後に中国で日本が確認されています。 日本ではその頃について文字で記載された文献や銘文(石や鉄に文字を刻む)が出土していません。 さてそこで卑弥呼です。 彼女のことは上記の通り魏志倭人伝ではきっちりと書かれています。実在の人であることは間違いありません。 それでは日本の史料や遺跡からはだれのことなのかです。 いくつか説があります。 一つ目は卑弥呼の天照大御神説です。 卑弥呼の邪馬台国は九州にあって、卑弥呼(天照大御神)の後の代に邪馬台国が九州より大和に東遷して大和朝廷がなった。 魏志倭人伝では卑弥呼の邪馬台国の場所がどこだかはっきりしません。九州説と大和(奈良県)説等があります。 二つ目は卑弥呼の神功皇后説です。 日本書紀の神功皇后の項に倭の女王が魏と交際があったことを記載している。 書き方が文章途中に注のような書き方です。魏志倭人伝から引用していることは間違いありませんが、卑弥呼の名は出てきません。神功皇后が卑弥呼だとは書いていません。しかし記述者がそのように思わせているようにも思えます。 神功皇后は卑弥呼よりもっと以前の人であり、卑弥呼は生涯独身ですが、神功皇后は仲哀天皇と結婚しているとして否定説があります。 三つめは卑弥呼の倭迹迹日襲媛命説です。 日本書紀によると奈良の箸墓古墳(桜井市)の祀られている姫で、7代孝霊天皇の皇女で巫女とされています。伝説的な人です。 箸墓古墳は3世紀後半の作造で卑弥呼が死んだその頃である。 この初期の前方後円墳に祀られている人が卑弥呼だと言いう人は、邪馬台国の所在が大和だと言う人に多いです。 四つ目は卑弥呼の九州の巫女説です。 邪馬台国は伊都国のことで、福岡県糸島市にあって、平原1号古墳の被葬者である。卑弥呼は巫女、祭司であって、別に男王はいた。 外にも説はありますが、これ位にします。 このように卑弥呼が何者であったのか日本の史料(日本書紀、古事記)や遺跡では比定が難しいのです。 これは当時についての文字史料や銘文が日本には残っておらず、日本書紀は8世紀初めに作成されており、この時代のことは伝承がほとんどです。 魏志倭人伝は一級史料ではあるのですが、邪馬台国が日本のどこにあったのか矛盾した記載となっており、九州説、大和(奈良)説、吉備(岡山)説等があって今日も研究者で喧々諤々の論議が続いています。 卑弥呼が何者かについても説が分かれるところです。 それでは卑弥呼は何者であったのかを筆者も語りましょう 卑弥呼は邪馬台国の女王として在位していたのは間違いありません。当時日本は多くの国が分立して互いに覇権を求めていました。 紀元1世紀後半から2世紀初めまで激しい闘争がありましたが、邪馬台国の女王卑弥呼が連合王国を結成させ、倭(日本)の大半を統括しました。 そこで卑弥呼は中国の魏の国(当時中国は魏・蜀・呉に分かれいました)と交流を図るため遣使を送りました。朝貢外交です。魏より「親魏倭王」の称号ももらいました。 女王卑弥呼の出身母体の邪馬台国は九州説等もありますが、大和説を取りましょう。 それは連合王国の中心の邪馬台国は最も大きな国であったことは間違いありません。 奈良の桜井市の纏向遺跡があります。東西2キロメートル、南北1,5キロメートルの都市の跡が発掘され、弥生時代の最大の都市です。これが3世紀の頃と認定されつつあります。そして同地区の箸墓古墳は3世紀後半造成の大型の前方後円墳で、これが卑弥呼又はその継承者の台与(壱与ともいう)の墓と推定されています。 卑弥呼を神功皇后のように書いている日本書紀には年代的に無理があります。 女王卑弥呼は日本では伝承されなかった3世紀の大和(奈良県)の人なのです。 卑弥呼は244年には亡くなっていますが、その後宗女(親類)の台与が女王になります。その後4世紀のことは中国の歴史書では分かりません。日本の歴史書)古事記、日本書紀)では卑弥呼や台与の名前が出てきませんのでその後のことも分かりません。 日本史が文献史料ではっきりし始めますのが5世紀からです。ただ、4世紀に大和の王朝が設立していたようです。3世紀の邪馬台国(女王卑弥呼)は大和の人であったのか、大和以外の人であったのか未だ謎です。実在の人物であったことは間違いないでしょう。 以上 2019年5月20日 梅 一声
|