神武天皇物語―古事記

 


 


 初代天皇とされています神武天皇について古事記ではどのように書かれているか。そしてそれは何を意味するのかを考えて見たいと思います。

 以前に「神話―古事記」をHP「閑話そぞろ歩き」で掲載しましたが、その続編です。

 神武天皇を語る前に古事記の上巻の終わりに記述があります天孫降臨と神武天皇以前の3代をまず語ります。

 

 出雲をオオクニヌシより譲り受け制圧したアマテラスは、葦原の中つ国(日本)の制覇のために長男(マサカツアカツカチハヤヒアメノホシホミ)の子のアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ(略してヒコホノニニギ)を地上に下すことにしました。

 出雲国は葦原の中つ国の首都ようなものですのでここを制圧したことは葦原の中つ国を制圧したことになるように思えるのですが、どうも完全制圧でなかったようです。

 出雲の制圧は古事記によっても10代崇神天皇、12代景行天皇(ヤマトタケル)までかかるようです。

 ヒコホノニニギは天の浮橋(高天原と地上の中継地点)を経由して筑紫(九州)の日向の高千穂の峰に降り立ちます。

 この高千穂が現在のどこか、二説あります。宮崎県臼杵郡高千穂町と宮崎県と鹿児島県との境霧島連山の中です。神話世界が現実にあります。

 ヒコホノニニギは国つ神(葦原の中つ国に住む神)の娘コノハナサクヤヒメと結婚するのですが、親の国つ神が姉のイハナガヒメも一緒にもらうことを条件に出します。

 しかし姉の方は醜女であったので返します。

 怒った国つ神はヒコホノニニギに呪いをかけます。この呪いによりヒコホノニニギの子孫には寿命が出来ます。以後、子孫の天皇は神ながら寿命が出来ます。

 息子が生まれます。

 兄が海幸彦(ホデリ)で弟が山幸彦(ホヲリ)です。

 この二人の物語はご存知の方も多いでしょう。

 「兄の海幸彦に借りた釣り針を弟の山幸彦が海中でなくしました。兄は許してくれません。海中に探しに行きワダツミ(海)の神と親しくなり、娘と結婚し、さらに釣り針もタイに刺さっていたのが発見されました。兄に釣り針を返しました。兄の海幸彦は降参して山幸彦の家来になりました」とさ。

 山幸彦は結婚したワダツミの娘トヨタマビメとの間に子ができます。

 産小屋を覗いてはいけないと言われていたのに覗いたところ、妻はワニ(ふか・さめ)の姿で子を出産していました。見られたトヨタマビメは里に帰ってしまいました。

 生まれた子の名がアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズです。

 この子には妻の実家より妹が乳母としてやってきます。

 そして長じて乳母で育ての親のオバータマヨリヒメと結婚します。

 生まれた子がカムヤマトイワレビコ、即ち初代天皇の神武天皇です。

 アマテラスからは6代目、地上に降り立ったヒコホノニニギから4代目です。

 

 さて神武天皇のヤマトへの東征です。

 どうゆう訳かアマテラスの子孫は三代も日向の山奥の高千穂で暮らします。アマテラスは何も言わなかったのでしょうか。

 出雲攻略では神を代えて何度も攻撃しましたのに。

 しかし4代目の神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が立ち上がります。やっと勢力が整ったでしょうか。

 兄のイッセとともにヤマト(現在の奈良県)に向かって進軍です。

 弟が嫡男で大将です。オオクニヌシは末弟で、海幸彦・山幸彦も弟の山幸彦が跡取りで、古事記の神話部分は弟の跡取りが多いのです。

 長男跡取り制は中国からの儒教の影響との説があります。

 

 東征は先ず海上を船です。

 高千穂を立って豊国の宇佐(大分県宇佐市)に立ち寄り、それから瀬戸内海を進み安芸国(広島県)の理(たけりー場所不明)に拠点を構え7年間座します。

 そして東進し、吉備(岡山県)の高島宮(場所不明)に8年間いて、そこから出発し、明石海峡を経て大阪湾の沿岸部に着いたようです。

 そこで奈良の豪族が待ち受けていて戦になります。

 ここで敗戦し、兄のイッセは戦死します。ここでは上述の神の呪いのせいか

神の子孫のイッセは死にます。

 戦場が今日のどこかはっきりしないのですが、神武天皇はヤマト(倭―奈良県)征服を目指していたのです。

 大坂湾から奈良へは当時は大和川(淀川の河口に注ぐ)をさかのぼるが通常の交通でした。

 従って大和川の河口が戦場であったと言う人もいます。

 通常ルートでの進軍は無理と考えた神武天皇は紀伊山半島の南部へ船で回り、そこから陸路北上して奈良の桜井、飛鳥を目指すことにします。

 熊野に到着とありますが、熊野どこか分かりません。ここから熊野の山山を越えて吉野に向かいます。

 アマテラスからタケミカヅチ(高天原の武将神、出雲制覇)の太刀が贈られます。

 更に案内人として八咫烏(やらがらす)が派遣されます。

 吉野川の上流で国つ神が迎えます(従属)。更に奈良の桜井に進軍し、逆らう者は倒し、従う者は家来にします。

 奈良盆地を制覇します。

 葦原の中つ国(日本)の中心のヤマトは統一政権が樹立されておらず、豪族たちの連合政権だったようです。そこを神武天皇が制覇したのでしょう。

 畝火(うねび)の白檮原(かしはら)に御殿を造ります(奈良盆地の南、明日香あたりか)

 137歳で崩御されます。寿命がありました。

 御陵は畝火山の白檮の尾根となっていますが、その後はっきり分からなくなりました。

 現在は橿原神宮(橿原市)の壮大な陵墓があります。

 

 二代目は兄弟間で争いがあり、弟のカムヌナカハミミ=綏靖(すいぜい)が天皇になります。

 古事記はこの後33代推古天皇(女帝)まで記述されます。神かかった天皇からだんだん人間天皇になっていきます。

 

 ここまでは出て来る登場人物はほとんど神です。高天原は神ばかりです。地上の葦原の中つ国にも神(国つ神)です。中巻以降葦原の中つ国に人間が登場するのです。

 神代の話、神話として今回はここまでに致します。

 

 古事記はただの神話か天皇家の日本国征服の歴史か、それともそれをひも解くヒントが隠された書なのか、研究者の見解もそれぞれです。

 ただの神話とすれば高天原のアマテラスの子孫の天皇家の地上の制覇の物語です。

 日本史と関係あるならば、邪馬台国が元九州にあり、奈良の大和を征服した歴史として関連づけるのでしょう。

 それでは神武天皇の話は西暦で言えばいつ頃のことかです。

 江戸時代までは昔昔のその昔で良かったのですが、明治にはいり、天皇は国の要の位置になり、その先祖(皇祖)の神武天皇はいつのことかは大事になりました。

 明治時代に西暦で紀元前660年が神武天皇の即位年になりました。

 古事記編纂の最後の天皇推古天皇の9年(西暦601年)が辛酉(しんゆう)の年になります。辛酉は中国の暦の干支で、干支は60通りの組み合わせで、60年に一回同じ年となります。

 中国では60年が21回繰り返す1260年をもって辛酉革命が起るとされています。

 これを逆算して西暦紀元前660年が神武天皇の即位年で陰暦では1月1日で、太陽暦では2月11日が紀元節、今の建国記念日です。

 大分こじつけのように思われますがまあこのようになっています。

 

 この後古事記は続きますがここまでにしたいと思います。

 

 尚、ご参考までに古事記そのものを読んでみようと思われる方には次をお勧めします。

 「口語訳 古事記」訳・注釈三浦祐之 文芸春秋、読み下し文・原文を読みたい方は「古事記・祝詞」校注者 倉野憲司・武田祐吉 岩波書店がよろしいかと思います。

以上

 

 2022年8月15日

 

梅 一声