封建制度をやさしく語ります


世界の歴史を語るなかで、その時代の支配する者と支配される者、統治する者と統治される者との関係を述べることが最重要項目です。

 王と貴族、王・貴族(領主)と領民(農民等)、天皇と領民、将軍と大名、

将軍(大名)と領民(農民等)との関係、即ち支配する者(統治者)と支配される者(被統治者)との政治形態があります。

 又支配(統治)の仕方の分類には中央集権型と地方集権型の二通りの分け方もあります。

 

 現在、世界の国は支配する者とかされる者とかの言い方はしません。政権と国民との関係と言われます。現在、政権は民主主義であろうと社会主義であろうと全て中央主権型と言って良いでしょう。

 現在の中央主権の国家の権限の分掌は次の通りです。

 中央政権(政府)は外交、防衛(軍事力)、憲法等重要法律、主要な税金の徴収を所管します。

地方の州、郡県市町村は中央政府の決定の下で行政を行います。どの程度地方に権限を委譲するか国によって異なります。しかし外交や軍事力は中央政権が専管です。税金は種類によって中央と地方で分けます。地方の行政が成り立たつように中央政府がコントロールします(アメリカ合衆国のように州も軍を保持することがありますが、州が独自に対外戦争をすることはありません。

 

 それでは昔の封建制度についてです。封建制度は地方分権の政治形態です。

 

 封建制度は日本では平安時代に武士の世界ではじまり、鎌倉時代から江戸時代まで(19世紀半ば)、ヨーロッパでは中世(5世紀)から近代の初め(19世紀半ば)までの期間における政治、法制、経済制度です。中国では周の時代(紀元前11〜紀元前3世紀)は封建制度ですが、それ以降はほとんど封建制度は起用されず郡県制度です。

 時の政権(王)が領地を支配(統治)する方法は地方分権の封建制度か、郡県制度の中央主権です。

 日本では大和朝廷は国内を国、郡に分け国司(官僚)を中央より派遣し、地方採用の官吏を採用して地方の統治をしていました。土地の支配は中央の政府である朝廷が行います。中央集権国家です。平安時代の中頃から鎌倉時代にかけて武士は主君と家臣の間は封建制度となります。源頼朝が鎌倉で武家の政府

である幕府を開きますが、地方は御家人(家臣)が頼朝から領地をもらって支配します。これが封建制度で、地方分権制度なのです。

 

 実は封建制度は日本とヨーロッパでは内容がいささか違います。両者を比較しながらお話します。

まずヨーロッパの封建制についてです。

英語ではヒュウダリズム(feudalism)と言っています。君主はと家臣(貴族)に主従関係を求め、その見返りに君主は家臣(貴族)に領地(土地)を与える双務関係(契約)と言われています。

 

主従関係は君主が敵と戦う時は家臣は兵士を連れて参戦しなければなりませ

ん。家臣が与えられた土地は領地、所有地となり、これが封土(ほうど)です。家臣は封建領主となります。
 領主には領主保有地と農民保有地を支配します。領主保有地は領主所有地で

領主の直営により領民(農民)が賦役で労働を提供しました(週2〜3日ただ働き)。農民保有地には貢租をかけ、更に領主は人頭税、結婚税、死亡税を領民に課すことが出来きました。

 

次に日本の封建制度です。

言葉は中国の秦の時代の封建制度を使っています。

ヨーロッパの封建制度と源頼朝と御家人の関係が似ていると言われます。

頼朝と御家人(家臣)の関係は御恩と奉公の関係です。頼朝の家来となって戦い(奉公)、本領(自分の領地)を安堵(保証)してもらい、更に戦功によって新領地をもらう(御恩)関係です。

 

 この関係はヨーロッパと同じと言う人もいます。

 でも違うところがあります。
  ヨーロッパは主従の関係は双務の契約関係であって、頼朝と御家人との関係は契約より君主への忠臣の情が強いと言われ、日本はその後徳川時代まで君主と家来の関係はこれが重要視されて来ました。いわゆる忠君の関係です。

 更に違う所あります。ヨーロッパの領主は農地を自ら所有して、領民を自分の農地で賦役させる直営を基本とします。日本では鎌倉時代では一部領主の直営地もありましたがほとんどは農民(領民)に田んぼや畑(領地を)を与え、耕作させ収穫から一定の年貢を徴収する方法でした。室町時代から江戸時代になり、大名、家臣の直営地は皆無となりました。更に領主(大名、家臣)は農地だけでなく領地に自分自身の土地所有は一切しません。従って領主は土地の売り買いは許され

ません。

  ここで余談ながら。
  明治になって版籍奉還でお殿様(大名)は藩主を辞めました。上記のようにお殿様には自己所有の土地、家屋の財産権はありません。家具、調度品だけを持ってお城や江戸屋敷から出て行くことになります。
 お殿様は身一つで追い出されたと思わないで下さい。みんな華族として爵位(公爵。侯爵・伯爵・子爵・男爵)をもらいました。それには充分な年金恩給がついています。
 お殿様は版籍奉還でおもう殿様(藩主)なくなった時、お殿様みなさんうれし

かったそうです。「もうこれで領国経営の責務から離れられる。おまけに年金

恩給までもらえる」と。
 徳川幕府の下でのお殿様は領国での借金経営と飢饉(餓死)、一揆の心配事ば

かりです。これ等のトラブルは下手をするとお家断絶、切腹です。もうこんな

苦労はなくなると思った、そのうれしさが本当の気持ちだったのですね。

 さて本題に戻ります。 
 ヨーロッパの領主(貴族)と違います、西洋では貴族は土地を私有財産とし

て所有することが基本です。売り買いは自由です。

領民(農民)を直営農場で働かせるのが良いのか、耕作を農民にまかせて

収穫から年貢で取るのが良いのかということになります。

 ヨーロッパの領主(貴族)の直営方式は徐々にうまく行きません。農民は一生懸命働いて収穫を増やしても何ら得になりませんから、労働意欲がわきません。収穫が上がりません。(農民の労働は賦役、即ちただ働き)貴族はだんだん領国経営に行き詰ります。

ただ私有地ですので売却することは出来ます。貴族の所有地は減って行き、中世後期から近世へ勢力が減退していきます。

 

更に王様と貴族(家臣)の主従関係で重要な点で日本の将軍・大名と家臣の

関係で異なることがあるのです。

それはヨーロッパの王様は自分の武力だけで王様になったわけではないので

す。王様たちは貴族たちに選ばてその座につくことが出来たのです。神聖ローマ帝国の皇帝ハウスブルグ家が貴族たちに選ばれて王家になったことは有名ですが、ヨーロッパの王家はハウスブルグ家に限らずほとんど貴族たちに推挙されて王になったのです。
 この選ぶ機関を「議会」と言います。ヨーロッパの部族は多くに分かれ、
部族間の侵入で絶え間なく紛争が続きます。これを防戦するためには同一地域

の部族間で連合して戦う必要が出てきます。この連合でのリーダーを関係貴族から選んで、王として他部族と戦ったのです。
 一度王に選ばれますと戦いでは全権持ちますが、平時でも全権を持ちます政治力が増強されます。王家(王朝)として子孫が王を継承します。貴族たちも他部族と戦う時に王家の権威を高め、コア(核)の強さが誇れます。
 しかし、貴族たちは王家権力があまりに強くなり、専制の方向になりますのでブレーキをかけます。これが貴族たちで構成される「議会」でもあるのです。

 ヨーロッパの中世、近世は王家と議会との力関係で王家の権力の強さが変化します。

 ヨーロッパではギリシャ、ローマ時代から市民が参政権を持つ「議会」がありました。中世になって封建制の王制になっても上述の通り、議会があります。

 中世の議会は定例開催ではありません。必要に応じて開催されます。新たに王が新税や増税をしようとすると議会が招集されて、反対してこれを認めません。王の専制を抑制します

 近世になりますと、王が議会を圧倒して、専制の時代がやってきます。フランスの王ルイ14世が通名です。ヴェルサイユ宮殿造った王です。
 この議会は時代が近世、近代に進むにつれ貴族とともに有力市民も議会の構成員になります。近世末には議会が強い時代がやってきます。
 そしてフランスでは王ルイ16世が議会の決定で処刑されます。この後ヨーロ

ッパの時代は国民国家となり国民主権の政権となり現在に至りますが、引き続き政権の対抗・抑制機関が議会です。
 

 日本では明治ならないと議会は出来ません。

 日本の中世は武士の時代で封建制ですが、政権を取った平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も大名達に選ばれて政権を取ったのではありません。武力で相手を倒しもしくは武力で大名達を家臣にして政権をとったのです。ですから日本には明治になるまで議会はありませんでした。

同じような封建制度でもここが日本とヨーロッパとが違います。

以上

2015年10月9日

梅 一声