ほんとうの水戸黄門


今回取り上げますのは水戸の黄門様です。江戸時代初期の方で、水戸徳川家(水戸藩)の藩主であって、そして本来は中央政府(幕府)の仕事である日本国の歴史編纂(国史編纂)を手がけました。

 

しかし一般的にはこんなことを知る人は少ない、又は忘れられています。

 何故この方が今日まで一般人にも有名になったか、それは「水戸黄門漫遊記」が講談、講談速記本、歌舞伎、浪曲、映画そしてテレビで流布され、人気を得たからです。

 有名になり始めたのは明治に入ってすぐで、先ず講釈師が演台にかけヒットし、今日ではかの有名な人気テレビ番組「水戸黄門」(TBS、昭和44年からで今は一応終了しています)です。

 

 それでは実像の黄門様を見てみましょう。

 黄門こと徳川光圀(みつくに)は水戸藩(水戸徳川家)の二代目の藩主(当主)です。お父さんは頼房(よりふさ)で家康の末子で11男です。父の頼房は家康から常陸国(ひたちのくに、今の茨城県)の水戸に35万石ほどの領地をもらい、尾張、紀伊の徳川家とともに徳川御三家の一角となります。

 ですから光圀は家康の孫となります。

 光圀は頼房の三男で、実母は側室の久子(家臣の子)です。頼房は久子が妊娠した時に「水になすように」と言われたそうですが、家臣の三木氏が命令に従わず久子に出産させた子が光圀なのだそうです。(光圀没後に家臣が著した記録書によります)

 寛永5年(1628年)、水戸城下で生まれました。元禄13年(1700年)に亡くなりました。享年73歳。

 光圀の兄で6歳上の長男の頼重(よりしげ)も光圀と同母久子で、頼重の妊娠の時も頼房は「水にながすように」と指示したそうです。頼重は長じて讃岐高松藩の藩主になる人です・

 頼重と光圀の間に生まれた次男亀丸は夭折しますが、この実母が正式の側室であったため彼女に遠慮して頼房は長男頼重と三男光圀を「水になすように」と指示したと、光圀没後の家臣の言です。真相ははっきりしません・

 

 さてと、ここで水戸徳川家の二代目の家督の問題です。次男が生きておれば正式の側室の子の次男が嫡男として家督を継いだことでしょう。(頼房は生涯正室を持たなかった)

 次男亀丸が4歳の時に亡くなりましたので、順序から言えば同母の長男の頼重が世子(跡取りになる子)なるとところが、父の頼房は幼少の頃より非凡な光圀を幕府に根回しして世子に決めてしまいます。

 長男の頼重が愚鈍であったわけではありあません。大名や旗本からも人望があったそうです。

 頼重はその後高松12万石に封ぜられます。

 しかし光圀は、本来水戸徳川家を継ぐのは兄の頼重との思いが断ち難く、兄の子を養子にもらい、自分の跡を継がせることにし、自分の子(頼常)を兄の養子にして高松藩を継がせることに決めます。

 父の頼房が存命中で光圀は未だ世子の立場で自分(25歳)の跡を決めてしまうのです。もう実質水戸藩の支配権は光圀に移っていたのでしょう。

 光圀のこの「長子相続が原則」の考えは儒教から来ていると言われています。(同母の場合)

 

 ところで光圀の名は三代将軍家光からもらった偏諱(へんき)で、「光」は家光の光です。

家光からもらった時は「光國(国)」で“くに”の字は「国」でした。光圀は後年、「国」を「圀」にかえ、「光圀」とします。ここではなじみがある光圀で通します。

 

 ここで光圀の若いころの話をしましょう。

 光圀は6歳にして世子に決まりますが、13歳頃から17歳頃までは品行不良の少年であったことが家臣の記録に残っています。

異様な風体をなし、遊里通い、はたまた辻斬りまでやったそうです。父親の頼房も訓戒を垂れていたそうです。

 ところがですね、18歳になった光圀は突然非行から脱却します。漢学、儒学に目覚め学問に精をだし、国史(日本史)編纂の事業に取り組みます。

 明暦3年(1657)30歳の時に史局(後の彰考館)を設け家臣を起用し、学者を採用して修史事業に乗り出します。

 光圀は国史の編纂事業は、彼の生存中にも一部は完成しますが、すべての完成はその後の歴代藩主の事業存続で明治に入って「大日本史」として完成します。

この「大日本史」の内容の充実を図り完璧なものにするために東大の史料編纂所が受け継ぎ完成を目指していますが、現在半分ぐらい完成で、古代から平成まですべての完成は後100年ぐらいかかると言われています。

 

 次に結婚ですが、正室尋子は光圀27歳の時に近衛家から迎えました。しかし4年後の明暦3年(1657)に正室が亡くなりました。正室には子がありませんでした。

 

 寛文元年(1661)に父頼房が亡くなります(59歳)。ここから光圀は家督を継いで水戸徳川家の当主、水戸藩藩主なります。光圀34歳の時です。

 

 藩主になり、一層国史編集事業に力を入れます。朱舜水等の学者を雇い入れ、史学館彰考館を充実させます。

 

 そして元禄元年(1690)世子綱條(つなえだ)に家督を譲って隠居します。63歳の時です。世子は兄頼重の次男で光圀が養子にとったのです。兄の長男も養子にとったのですが亡くなったため、次男を世子に定めていたのです。

 兄の子を水戸徳川家の跡取りにするとの光圀の信念は堅いものがあります。

 

 この隠居時代に家臣藤井紋太夫(徳昭)御手討ち事件が起こります。この事件は芝居、講談や映画等で取り上げられることが多いのでご存じの方もあるかと思います。

 事件は元禄7年(1694)11月、光圀は江戸の小石川邸内に老中、大名、旗本を招いて能興業を催していました。光圀は自分も能を舞った後、楽屋で腹心と言われていた紋太夫を呼びつけ突如御手討ちにしたのです。

 そうです。光圀自ら紋太夫を押さえつけ刀を首の脇に二度刺し入れ殺したのです。

見事な殺し方だったそうです。周りはふすまで囲まれていましたが、二度目を刺す時に家来が目撃しました。血は外にはこぼれず衣服内に止まるようして刺殺したそうです。

江戸時代の殿様も二代目、三代目以降は戦場の経験がありません。人殺しの経験がありません。光圀も戦場経験はありません。しかし若い頃に辻斬りの経験があり、又丹力もあって静かに処断できたのでしょう。

ところで後日光圀は幕府に藤井紋太夫処断について弁明書を幕閣に送っています。

処断の理由は「紋太夫は常日頃、高慢で奢っていた。そして帯刀のまま部屋に入って来た。」

との内容です。

 こんな理由で申し開きもさせないで家臣を自ら御手討ちとは当時とは言え、乱暴に見えます。

特に光圀は家臣や領民への死刑に対しては慎重な人で十分吟味させなければ処断させなかった人と言われています。

もちろん幕府からは御咎めはありません。

この紋太夫御手討ち事件のこれ以上の理由を関係者が記したものはありません。

どうも解せないところがあります。後世のお芝居では、「紋太夫が綱吉将軍の側用人で当時飛ぶ鳥の勢いの柳沢吉保と共謀して光圀蟄居、幽閉を図った。これに対し光圀が打って出た。」とあります。

綱吉将軍の「生類憐みの令」をあまり守らなかった光圀には、この方が納得感があるかもしれませんね。

徳川光圀は元禄13年(1700)12月73歳で亡くなりました。隠居後は従三位権中納言。亡くなって贈従三位大納言、明治になって尊王の人として評価され贈正一位。

黄門は唐名で中納言を称します。

 

副将軍の位にはありませでした。

全国を漫遊していません。助さん、格さんも実在の人物ではありません。

すべて講談、芝居、映画やテレビの創作です。

創作の元になったのは光圀の近臣が残した「桃源遺事」でこれは事実に近いと言われています。

 光圀は漫遊はしていませんが、生涯で江戸と水戸領内以外に行った所は、熱海、日光それに鎌倉です。いずれも当然ながら大名旅行です。

以上

 

 2016年4月24日

 

梅 一声