平安時代史をもっと分かりやすく

 


 


 平安時代は日本史で分かりにくい時代でしょうか。戦前の偉い学者内藤湖南は、平安時代は日本の歴史ではないと言われました。現在日本と習俗が大きく異なることからですが、更に現在の日本人には理解しにくい政治、社会体制であったせいかもしれません。

 それをここで出来るだけ分かりやすくお話してみます。

 天皇と藤原氏を中心に貴族政治が行われ、平安時代末期には平氏が武家政権を立ち上げます。

 武士の政権は鎌倉、室町、戦国、江戸時代と続きます。この時代の方がまだ理解しやすいようです。

 平安時代は更に経済支配体制が荘園公領性と言って私領と国の管轄の公領の二重建てで一層理解を難しくします。

 仏教の進展や文芸、美術の作品の優秀性は今日でも知られるところです。

 

 そもそも平安時代をいつからいつまでとするかですが、大雑把に言って8世紀末から12世紀末の400年間となるのでしょうが、具体的にいつからいつまでとするかは諸説があって定まりません。

 ここでは始めは794年の桓武天皇の平安京遷都としましょう。受験の時に「“なくよ”鶯ホーホケキョ」と覚えましたね。

 終わりです。鎌倉時代の始まりです。最近の学者は1185年の義経の壇ノ浦での平氏討滅、守護・地頭設置からとする説が多くなっています。この戦いで平氏は滅亡し、頼朝の鎌倉幕府(時代)の始まりが妥当とするものです。

 我々が教わった1192年(源頼朝征夷代将軍就任)の説が後退しつつあります。これから試験では当分鎌倉幕府の始期の年についての問題は出ないでしょう。

 

 桓武天皇は天皇専制政治をしきます。奈良の平城京を京都の西南の位置に新たに都を造り遷都しました。長岡京です。しかし10年後に現在の京都の位置に更に新たに都を造り遷都しました。平安京です。

 長岡から隣の平安京に遷都した理由は諸説あります。長岡の地では桂川の洪水に堪えられなかったとの説が有力です。

 桓武天皇の晩年です。遷都を二回もしたこと、東北の蝦夷征討(征夷大将軍坂上田村麻呂)に多額の費用を費やしたことで、財務の縮小政策がやむ得なくなりました。

 東北への更なる遠征の取りやめ、徴兵(兵役の義務)を廃止して国軍を解散して国費の軽減を図ったのです。この国軍の解散が武士の勃興をうながすものになって行くのです。

 飛鳥時代の朝鮮出兵がなくなり、東北の蝦夷の活動が下火になっても地方での大規模な反乱はおこります。

 これに中央の検非違使などの警察や地方の国衙の警察程度の武力では対応出来ません。

 ほとんど一般兵がいないのですから。

 これに対応するために郎等、郎従(武装した家来)を抱えている源氏、平家

更に地方の武力集団(源氏、平家の庶流、郡司、郷司、下司)に軍事を頼らずを得ません。

 この武力集団は朝廷の武官ではありません。それぞれの武力集団は郎等、郎従と言われる私兵を抱えています。平安時代の武士の誕生です。

 彼らは朝廷の要請で応えて反乱者を鎮圧するのです。

 国内の反乱の有名なものは10世紀中の平将門や藤原純友の天慶の乱、11世紀初めの前上総之(さきのかずぜさの)(すけ)(ただ)(つね)の乱、東北での11世紀中の前九年の役、11世紀後半の後三年の役有名ですね。

 この反乱への対応では、武士の活躍で特に源氏が中央で軍事貴族として名をはせました。次いで平氏も白河法皇の引きで源氏の勢いにせまります。

 

源氏は関東の武士団を、平氏は九州、瀬戸内海の武士団を束ね勢力を誇りますが、しかし身分的には天皇家、院家(上皇)、摂関家の傘下の位置にあります。

国司(守、介)、検非違使(京都警察)、北面の武士(内裏や院を守る侍)の役を与えられていますが、中貴族であって公卿(大臣等)にはまだなれません。

 武士の政権は平安時代の末期になります。

 

ひとつ前の奈良時代は、朝廷は律令制のもとで国家を運営していました。一言に行って中央集権国家であって政権は天皇にあって専制、絶対的であって、以下貴族は身分的には歴然とした家臣です。桓武天皇はもちろん絶対的君主です。

しかし桓武天皇没後政権運営の実態が変わって行きます。

 

藤原氏四家の内北家の勢力が他の貴族を圧倒します。中でも天皇家の外戚の地位を得て北家のうち藤原御堂家(みどうけ)が天皇を上回る実権をもちます。     

11世紀初めには藤原道長、頼家親子の権力はピークに達します。

律令制にはない摂政・関白制度が導入されます。律令制の最高位の左大臣の上席となって天皇をしのぐ権力を得ます。この職を藤原御堂家が独占します。

これを摂関政治と言っています。

 

律令制は経済、財政の変化でもくずれて行きます。

律令による班田収授は奈良時代から崩れつつあったのですが(注)、平安時代にはいり、地方の武士から中央の高級貴族や寺社への開発した荘園の寄進によって、又武士の公領(国衙領)の横領で朝廷への租税収入が減って行ったのです。

() 農民一人ずつに国有の田地を分配しての租税徴収の法がくずれ、農民

(農家)の現有の田地の広さからの租税徴収の方法に変わる

 

 地方の武士は開発した荘園を寄進と称して院、摂関家等の高級貴族や寺社を領家・本家とする領主とし、自分を下司の名で地元領主として、租税を分け合い、国(国衙・国司)に租税を納めません。更に荘園を国衙の警察権も及ばない私領地としていきます(不輸不入の特権)。

 この特権を自分たちの私欲のために中央の高級貴族は認めてしまうのです。余りに行き過ぎて国の租税が減ります。

 新規荘園を認めない法律(荘園整理令)を出しますが、高級貴族たちは守りません。

 更に朝廷は租税の確保のため国司は一定の税収を朝廷に納めれば後は自分の私有として良いとの請負制としました(受領国司)。

 

 院や摂関家は豊かな国に自分の傘下の中小貴族を国司に任命し、利益を得ます。源氏や平氏の武士をも任命してその軍事力を傘下におきます。

 荘園が増えて行く中で日本国の地方行政は公領と私領の二本立てになって行きます。これを荘園公領制と呼んでいます。

 院や摂関家は荘園の本家としての収入、国主(国司任命権)としての収入、さらに元々ある朝廷からの給与(国司から朝廷に納める租税から)があり、院や摂関家の収入は膨大のものなって行きます。

 

 このような政治経済情勢の中で、12世紀の中頃天皇家内で政権紛争がおこります。藤原摂関政治から白河院政に移り、白河院、鳥羽院が亡くなった後、後白河天皇と崇徳上皇の兄弟間に争いが起きるのですが、これに藤原摂関家のお家騒動更に源氏、平氏のお家騒動が絡み、内部でそれぞれ二つに分かれ後白河天皇(後の法皇)派と崇徳上皇派につきます。

 源義朝や平清盛が味方した後白河が勝ちました。(12世紀中の保元の乱)

 しかし義朝は恩賞や戦後に院近臣(信西)の支配に不満で、反乱を起こします。清盛が後白河院に味方して義朝は敗退します。(12世紀中の平治の乱)

 後に清盛が武家政権を打ち建て続いて源頼朝が平氏を倒し武家政権が続きます。400年にわたる平安時代は終わります。

 

 この時代は四つの政治形態を経験しました。天皇親裁(独裁―桓武天皇等)、摂関政治(藤原道長等)、院政(白河院等)そして武家政権(封建制)です。経験しなかったのは民主政治だけです。

 

 この時代の仏教についてふれます。

 6世紀半ばにもたらされた仏教は奈良時代を経て空海が密教を、最澄が天台宗を唐から持ち帰り普及させます。

 空海の密教は高野山金剛峰寺を建立し本山として全国展開します。最澄は比叡山延暦寺を建立します。

 最澄の仏教の教えは巾広く、鎌倉時代に延暦寺の僧から分派します。浄土宗、浄土真宗(一向宗)、禅宗の臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が分かれます。

 それぞれ今日の仏教界の礎の宗派です。日本の今日の仏教は平安時代にその基盤があります。

 

 文化を見てみましょう。 

 奈良時代は漢学、漢詩が主流でしたが、平安時代にはかな文字の文化が発展します。

 和歌(古今和歌集)が漢詩より盛んになります。ひらかな文字での物語が創作されます。竹取物語、伊勢物語、土佐日記等です。

 特に宮廷を描いた紫式部の源氏物語や清少納言の随筆枕草子は当時から現在に至って国文学において最高傑作とされて来ました。

 二人は同時代の人です。清少納言は一条天皇の后定子付きの女官(女房)で、紫式部は同じく一条天皇の后彰子の女官でした。二人は同時代の人で、異なる女主人(后)に仕えていました。

 

 建築では現在残っているものでは、藤原頼通が建てた宇治の平等院が有名ですね。道長建てた法成寺や院政時代に白河等法皇が建てた六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺の六寺の総称)があったのですが、今は見られません。

 

 美術ではうるしを使用しての蒔絵の手法、寄木造の手法で作った平等院鳳凰堂の阿弥陀如来(定朝)が発展します。

 

 文化の面は納得いく方も多いでしょうが、政治史は現在人にとってなかなか

理解しずらい時代です。

以上

2022年7月13日

梅 一声

 

もう少しくわしいことを知りたい方は弊ホームページ「閑話そぞろ歩き」を参照ください。

〇荘園のことを少し知りたい方へ

〇清少納言と紫式部

〇桓武天皇と遷都と怨霊

〇藤原道長・頼通親子の摂関時代 前編・後編

〇院政時代の保元・平治の乱と武士の勃興