廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)についての話 


 

今日、「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)なんて言葉は特別の歴史用語として使われ馴染みのない言葉になっています。しかし日本文化が大好きな日本人は一応どんな事件だったのか、そしてその事件は今日どのような影響を及ぼしているのかを知っていても邪魔になりません。

 今回はこのややこしい「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)について出来る限り簡明にまとめてみたいと思います。

 先ず「廃仏毀釈」の単純な意味は、廃仏は仏像を廃棄する、毀釈はお釈迦様をそしることとなります。

「廃仏毀釈」について山川出版の高校教科書「詳説 日本史 B」には次のように記述しています。

“(明治)政府は王政復古による祭政一致の立場から、古代以来の神仏習合を禁じて神道を国教とする方針を打ち出した。(神仏分離令)そのため全国にわたって一時廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた……”

 そういうことで、明治政府が維新早々に打ち出した宗教政策は、「廃仏毀釈令」ではなく、「神仏分離令」だったのです。“寺を壊して仏教を捨てよ”との命令ではありませんでした。

 革命政権である維新の明治政府は天皇を支柱とする国民国家を目指しました。その支柱たる天皇の絶対に侵されるべきでない存在意義を皇室の宗廟たる伊勢神宮を最高にした神道に求めました。

 そのため、明治維新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変えることにしました。

 江戸時代まで、仏教と神道は神仏習合・神仏子混淆(しんぶつこんこう)です。どちらが上かと言えば仏教(寺)です。神社の中にお寺がありました。大きな神社の名前も例えば鎌倉八幡は鎌倉八幡宮寺であり、京都の石清水八幡も石清水八幡宮寺と“宮寺”と寺の字が入り、最高責任者は別当と呼ばれ僧侶でした。(現在は宮だけ)又お寺にはそれぞれ神社を境内に勧請していますが、これは神様が仏様を守る立場、従属の立場です。更に本地垂迹(ほんちすいじゃく)と言いますが、これは日本の神々を仏・菩薩の権(かり)の現れとして位置づけ、仏が本体であり、神は仏を守護する役割にされています。(例えば熊野三所権現・山王権現、八幡大菩薩)

 このように日本の神が仏に従属されての神仏習合は、明治維新政府が天皇を支柱にする政策からよろしくありません。

 天照大神―神武天皇―大和天皇(古事記、日本書紀記述)からの明治天皇の存立(万世一系、現人神)が絶対必要と考えました。この考え方は江戸時代にもあり、本居宣長や平田篤胤の国学者が提唱していました。この思想に乗りました。

 そこで、維新政府は仏教の神道より上位を打ち壊すため、神社内の仏教的な要素を取り除くことにし、「神仏分離令」(1868年 慶応4年)の布告を出しました。

 即ちそれは神社の僧侶(社僧)は還俗すること。神社は仏像を神体にしてはいけない。神社は梵鐘、仏具等を取り除くことでありました。

 しかしながらこの布告は「神仏分離」に止まらず、神職や住民によって「廃仏毀釈運動」に発展してしまいました。

寺の管理下にあった神社は、神職がこれまでの寺へのうっ憤からか過激な行動に出て仏像、仏堂、仏具等を焼き捨てた神社が出てきました。日吉神社、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、金毘羅大権現等です。更に影響は寺にも及び各地で廃寺や寺の統合が行われました。地域としては鹿児島、水戸、佐渡、富山、信州などが激しかったようです。

これは江戸時代の国学者や神道家の影響もあるのですが、寺が幕府の宗教制度の一翼を担った中で、この機に反発が寺へ出てきたものと言えます。

壊滅的な被害にあった有名な寺としては奈良の興福寺です。興福寺は五摂家藤原氏の氏寺ですが、中世の頃は寺では最大の荘園(私有地)持ち、東大寺よりも大きく、その後も伽藍、堂舎の規模は日本最大でした。金堂(本堂)が二つあったのは興福寺だけです。仏像、仏具の類も他を圧する量と質と言われ文化財の宝庫でした。この寺を僧侶は廃寺にしてしまいました。伽藍は五重塔以外ほとんどすべて壊してしまいました。五重塔も売られましたが、買い手が処置に困り、焼こうとしましたが、類焼を恐れた住民の反対でそのままとなり、今日まで残っているのです。良かったですね。興福寺はその後復興しましたが、今日の規模は昔の面影もありません。

明治政府は、その後「神仏分離」は廃仏ではないと布告しましたが、明治の初めのこの「廃仏毀釈運動」が地域によって、又神社、寺によってはすさまじいものがありました。

この運動は仏教勢力の反発もあり収まるのですが、このため失われた仏堂、仏像、仏具、古文書類等の文化財は興福寺を筆頭に如何ばかりであったのか想像を絶するものと言われています。

文化人にとっては恐るべき暴挙と言うことになります。

ところでこの「神仏分離」(「廃仏毀釈運動」)が行われていた頃、天皇家にはどのような影響が及んだのでしょう。これは天皇家の存立基盤の強化のために行われた施策なのです。もちろん天皇家にも及びました。もともと仏教を日本に輸入して信仰し、国内に普及されたのは天皇家です。内裏(禁裏)には歴代天皇、皇后の位牌が納められた仏堂があり、外に真言院(真言宗)もありました。もちろん祖霊神を祭る神殿もあり、天皇家は神仏を併せて信心されていました。

しかし「神仏分離」でお位牌を京都の泉涌寺に預けられました。泉涌寺の墓域には多くの歴代天皇の陵墓があるところです。皇居の中には仏堂も仏殿もなくなりました。要は、天皇家は仏教の信仰をお止めになり、信仰は伊勢神宮の神様だけになりました。

葬式は孝明天皇(明治天皇の父上)まではすべての天皇は仏式でしたが、明治天皇、大正天皇、昭和天皇は神式となりました。

「廃仏毀釈運動」はしばらくして収まり仏教も復興しました。

戦後は「神仏分離令」から起こった国教神道―国家神道はなくなり、天皇は現人神(あらひとがみ)から人間天皇になりました。もう天皇家は神道一本でなくて良くなったのです。

しかし天皇家はご先祖があれほど熱心に保護され、国民と共に信仰された仏教をもう一度信仰されるようにはならず今日までに至っています。

 「神仏分離」―「廃仏毀釈運動」は明治の初めの一時の事件としてとらえてしまうことも可能でしょうが、天皇家が仏教の信仰をお止めになったままと言うことは未だ尾を引いていると言わざるをえません。

 私はあまり熱心な信者ではありませんが日本人が長い間信仰してきたお寺も神社も尊崇します。念のため申し添えます。

以上

 

2013623

 

梅 一声