逆臣足利尊氏


あの室町幕府を創設した征夷大将軍足利(たか)(うじ)についてです。後醍醐天皇を吉野に追いやった逆臣・逆賊として歴史史上もっとも悪人の一人として明治以降位置づけられて来ました。

 しかし戦後は、足利尊氏寄りの評価が出てきました。

 

 ここで日本史上天皇に逆らった代表的な人々を振り返ってみましょう。

 古い順からです。

 一に飛鳥時代に崇峻天皇を殺害した蘇我馬子、二に平安中期の藤原氏(道長頼通等)の摂関政治で天皇をないがしろにします、三に後白河法皇の政権を奪い、軟禁状態にした平清盛、四に後白河法皇に逆らって鎌倉幕府を樹立した源頼朝、五に倒幕の挙兵に対し北条氏が後鳥羽上皇、順徳上皇等を配流の処分、六に後醍醐天皇に対する尊氏の反逆行為です。その後戦国時代に入り、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も天皇を利用することがあっても、天皇に政権を戻すと考えた人はいません。

 

 考えてみますとどの政権も天皇に反抗的です。極端な例は蘇我馬子の天皇殺害です。北条氏は天皇及び天皇経験者の数人を配流です。

 尊氏はどうでしょう。彼の考え方を見ます。

 天皇には弓を引かない。敵は後醍醐天皇ではない(以後後醍醐と言います)。その周りの新田義貞等である。天下のためなら違勅(天皇の命令に服さない)もやむを得ない。(儒教の考え方)

 後醍醐が吉野に行き勢力が衰退していっても尊氏は吉野は攻めません。天皇を攻撃したら厳罰に処すと味方に厳命しました。

 尊氏は後醍醐がどこで暮らしても構わないと周囲にもらしました、捕えて北条がしたように配流にしたくなかったのでしょう。

 後醍醐が亡くなった後に天龍寺を建立してその供養をしました。天皇として尊崇はしていましたが、武士の棟梁としての足利尊氏を認めてもらえなかったことへの反発での行動でした。

 

 それでは尊氏の性格について高名な禅僧夢想礎石の言を要約してみます。(当時の南禅寺の住持で尊氏も後醍醐も尊崇していました)

 @合戦において恐れず勇敢、A慈悲深く、敵に対しても許す心、A物惜しみをしない。

 @は武将として当然でしょう。Aも敵も相手によっては許さないと味方が集まりません。Bは特筆すべきこと事があります。彼は元々の領地の三河国、上総国それに合わせ後醍醐天皇からの恩賞(5か国)の領地をすべて一族や、家臣に分配してしまいます。

 こんな大将は以前にも以後にもいません。平清盛、源頼朝(関東の大半の領地)、北条(守護国の半数は北条一族)、豊臣秀吉(日本一の大金持ち)、徳川家康(関東中心に俗に800万石)も天皇、寺社、武士(大名)の中でずば抜けた大きな直轄領を以って政権・勢力を保持しました。

 

 尊氏は足利家が源氏の棟梁で、武士の家格で絶対的に優位を武士たちが認めることで国の支配は可能と判断したと考えられます。

 しかし尊氏のこの家臣への大盤振る舞いが良かった、悪かったかはあります。一国の直轄領もなく、少ない領地で自家を賄わなければならないため、直臣(後代の旗本)の兵力が小さく、以後の歴代将軍は反乱者の対応に苦労します。しかし足利政権(室町幕府)は250年も続いたのですから尊氏の方針が間違っていたとは言えないでしょう。

 

 とにもかくにも尊氏は、源氏としての家格の絶対的な高さ、政治家としての組織する能力も高く、上記@〜Bの性格に合わせ、かつがれやすい性格もあって武士(地方の大小の領主)から人気がありました。

 尊氏は京で後醍醐天皇派にいったん敗れ、九州に下りますが、その時関東から従って来た武将たちは皆九州に従って行ったのです。ですから九州を直ぐに制圧して九州の勢力をも引き連れて京へ向かって東上できたのです。

 要するに結果的に武将の間で、後醍醐より尊氏の方が人気が高く、その分兵力が尊氏に集まったのです。

 

 尊氏は後醍醐に代わって持明院統の光明天皇を立てますが、元々大覚寺統(後醍醐天皇)と持明院統から代わる代わる天皇を立てることになっていたのです。  

これは鎌倉時代に次期天皇擁立に当たって天皇家(朝廷)がもめてこれを執権北条氏が仲裁して決められたのです。後醍醐天皇の後は持明院統になります。尊氏は強引に他の皇統を引っ張り出してきたのではありません。

 持明院統の天皇の擁立は充分根拠がありました。

 更に尊氏は光明天皇の後には大覚寺統の後醍醐の皇子成良親王を次期天皇(皇太子)に決め、後醍醐も同意していたのですが、和議を破棄して吉野に行ってしまわれました。

 後醍醐の後の大覚寺統の天皇は、後醍醐の父の後宇多天皇は後醍醐の兄後二条天皇の子邦良親王に決めていました。邦良が亡くなっていましたので邦良の子康仁が天皇と言うことも充分考えらえたのです。

 ここはもちろん尊氏は後醍醐の子を皇太子を推挙しましたが、和議は破談となり、この話はなくなり、南北(吉野と京)に天皇がましますことになります。

 

 尊氏は北条政権(鎌倉幕府)倒した後醍醐の偉大さを認めており、尊崇もしていました。

尊氏の武力で北条氏を打倒したと言え、何と言っても後醍醐は北条氏を倒すために少ない味方(兵力)中で三度も立ち上がったのですから。

 

 後醍醐は自分の思想を持ち、天皇独裁の方向を変えませんでした。こんな為政者は日本には以前も以後もいません。

 地方領主である武士とそれを仕切る棟梁の制度を認めないのが根本思想です。

後醍醐が始めた建武の新政では先ずは、国司制度(律令制)と守護制(鎌倉幕府の守護制)を併用としましたが、各地でもめ、京で訴訟となりましたが、うまく対応出来ませんでした。

後醍醐でなく尊氏を選んだ武士(領主)たちは結局足利家(尊氏)に武士の棟梁として鎌倉幕府と同じように采配してほしいと考えたのです。

 

さてこのようにお話しますと日本史上何故尊氏ばかりが逆臣・逆賊・悪漢として語られるようになったのかです。

尊氏が忠義の臣とは言えないでしょうが、もっと天皇(家)にひどいことをした為政者は上述のように何人もいます。

 

これは尊氏は逆臣、南北朝正閏論(せいじゅんろん)で南朝の正統を明治政府が言い出したことにあります。

明治維新政府は、日本国を天皇を核として国内を一つにまとめて統一国家とし、海外に打ち出す方針を確立しようと考えていました。

徳川将軍家なきあとの日本国の体制はプロシャにまねて天皇(皇帝)を核としたのです。

その政策のなかで、一般国民になじみがない天皇に注目させなければなりません。数々の政策を打ち出しますが、ここで日本史上天皇への最大の忠臣を作り出し、これを手本とすることを国民に指導しました。

正成(まさしげ)が選ばれました。後醍醐天皇の下に一に馳せ参じ、戦死した勇者です。反対する者はいないでしょう。

ところが正成は北朝の後醍醐天皇の忠臣です。後醍醐(南朝)を正統な天皇とする必要が出てきました。

南朝は足利三代目の義満の時から皇統でなくなり、次いで正史からなくなります。しかし南朝を正統な皇統しないとストーリーが出来あがりません。

北朝の系統である明治天皇に南朝が正統な皇統でよろしいかと聞いて了承を得たのです。

不思議なことです。南朝が正統ならば、北朝の明治天皇は正統な皇統で無くなります。正統な皇統でないお方が現天皇(明治)となります。当時この矛盾を指摘した人はいるのですが、無視されました。

後醍醐に逆らい、寵臣の楠正成の敵、尊氏はにっくき逆臣、逆賊に仕立て上

げられました。

一般国民はこのようなイメージで教育されて来ました。

 

尊氏亡き後の南北朝時代に執筆された有名な物語があります。創作の多い歴史的な文学書と言われている「太平記」は後醍醐寄りの見方ですが尊氏についても客観的に記しています。「太平記」より史実の多い「梅松論」や「難太平記」は尊氏寄りの見方です。

全く逆賊扱いをしていますのが、江戸時代に書かれた「大日本史」(水戸徳川家)です。

 

戦後は政府からの規制がはずれ、事実を記述された解説書、吉川英治の「私本太平記」、NHKの大河ドラマ「太平記」等によって尊氏の実態が明らかにされてきました。

 

 日本史史上後醍醐天皇も足利尊氏も重要です。この二人があって室町時代は到来しました。どちらも特筆すべき偉大な歴史上の人物です。

 室町時代は現在の日本の政治史、経済史、文化史の基盤です。

 

 2018年1月11日

 

梅 一声