後醍醐天皇と言う政治家の話


 

歴史上中央政権を武力で奪取したと言える人物は、奈良時代以降では、平 清盛、源 頼朝、北条氏(北条義時、政子)、後醍醐天皇、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康となりますでしょう。(明治天皇は幕末に討幕の志士にかつがれた人ですから外しておきます。)

 言うまでもなくこの人たちは歴史上の著名人です。そしてこれ等の人物の内、この人以外、日本人はほとんど共通の人物イメージと歴史観を持っております。この人とは後醍醐天皇です。今回はこの人を取り上げます。

 さて上記の人物は皆武力で政権を奪取したことは共通です。そして後醍醐天皇を除いて皆武将です。武力で政権を奪取した天皇は壬申の乱での天武天皇以来で、特異な天皇と言えます。(源 頼朝の妻北条政子は当然婦人ですがまあ武将でしょう。尼将軍と言われたぐらいですから)

 それでは専制・独裁の帝王と言われる後醍醐天皇の人物像、歴史観をお話しします。

 時は鎌倉時代も晩年の頃(13世紀末から14世紀初め)、全国を統治していた鎌倉幕府は北条氏(執権)が政権を握りそして未だ北条氏の力はゆるぎないない治世にありました。

 それは天皇家の後継人事にも関与していたことでも分かります。天皇や法皇や公卿で決めることになっていた天皇の後継人事が揉め、幕府に調停を依頼したことに拠るのです。

 そこで幕府は天皇の後継人事について都度調停しました。そして後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)をほぼ交互に継承させることになります。これがいわゆる「両統迭立」と言われているものです。(後記「両統(大覚寺統と持明院統)迭立時代の天皇系図」をクリック)

 さてこのような天皇継承が進む情勢の中で、後醍醐天皇((たか)(はる))は1288年(正応元年)に後宇多天皇(大覚寺統)の第二皇子として生まれました。そして兄が天皇に即位(後二条天皇)しました。

父の後宇多法皇も大覚寺統としては、後二条天皇の後継には同天皇の息子の邦良親王に決めておりました。

ところが後二条天皇が急逝しました。そこで後継は幕府の調停で、今度は大覚寺統に代わって持明院統から花園天皇が即位しました。その次は順番で大覚寺統に回ってくることが決まっています。後宇多法皇は、予定されていた亡き後二条天皇の息子(後宇多院の孫)邦良親王では天皇として若すぎるため、

急遽(たか)(はる)親王(後醍醐天皇)の起用を決めました。

そして花園天皇(持明院統)在位10年後に後醍醐天皇が即位となりました。(1318年)しかしながら父の後宇多法皇は大覚寺統としての後継は後二条天皇の息子の邦良親王(嫡流)に決めたことは変わりません。大覚寺統にとって後醍醐天皇は臨時に起用されたのです。(一代の主)

 さてさて31歳で後醍醐天皇は天皇になると相当の政治手腕を発揮し父の後宇多法皇の言うことをだんだんを聞かなくなり天皇が自ら決める親裁としました。

後醍醐天皇は天皇の継承を兄の系統(後二条→邦良親王系)に渡さず、そして持明院統にも渡さず、自らが永久政権で後継は自分の子孫への継承を考えました。しかし父の後宇多法皇が生存中は動けませんでしたが、1324年に同法皇が亡くなりました。  

後宇多法皇が亡くなっても後醍醐の後の天皇が邦良親王であることは幕府も承認、決定事項なのです。

後醍醐天皇がこれを覆すには鎌倉幕府を滅ぼし自らが全国政権を奪取し樹立するしかありません。武士の政権を終わらせ、公家の政権に戻すのです。(公家一統)

 幕府を倒すには武力が必要です。後醍醐天皇は非凡な人です。鎌倉幕府を支えている武力の基は幕府の直属の武士である御家人、北条氏の家人、守護や地頭とその家人です。実はこれ以外にも武力集団があったのです。この集団が私たちが良く知る楠 正成などの集団です。この人たちを今日「悪党」などと呼ぶこともあります。

 後醍醐天皇はこの集団を使って討幕の武力の起爆剤とし、先勝によって後々ついてくるであろう守護や地頭の武力に期待したのです。

 一回目の立ち上がり(正中の変 1324年)は失敗しました。二回目の立ち上がりも(元弘の変 1331年)でも失敗しましたが、その後の鎌倉幕府の討幕勢力への対応の失敗により、幕府の有力守護である足利尊氏が寝返って後醍醐天皇に味方したため、そして多くの守護が後醍醐天皇側に移ったため、後醍醐天皇勝利、北条氏の鎌倉幕府は討滅されたのです。

 この後、後醍天皇の治世となりますが、1333年から3年間ばかりの期間でした。(建武の新政)この期間の短さは結論的に言えば、後醍醐天皇は武士の政権(幕府)を認めず、自分の専制・独裁政治をめざしたことによるものです。

 後醍醐天皇の目指した具体的な治世の形態がどのようなものであったのかは、はっきりとは言えなのですが、分かっていることは、関白を任命せず、即ちナンバー2の地位を認めない。太政官での会議(陣座・公卿僉議)は開かれない、即ち最高幹部会議からの意見具申は認めない。清家、大臣家、羽林家、名家の各家格を無視した職位の任用(例えば羽林家は納言までが先例だが、その上の内大臣に起用)し、実務官僚は家格に関係なく起用する。即ち官僚組織(記録所等)や官僚は自分(天皇)に直結させる。

 何をモデルにしたのか、本人は「延喜・天暦に還れ」と言っていまが、中国の宋朝の帝王制を目ざしていたではないかと今日言われています。

 しかし古来、普通専政君主と言われている人物も、幹部会議を認めず、そこから集約された意見を聞かない君主は極めて少ない。専政と言われた桓武天皇も、織田信長も。豊臣秀吉も幹部会議を開かせなかった人はいません。もちろんトップが幹部会議の集約を聞かない場合は当然あります。

 後醍醐天皇は日本の歴史上、後にも先にも登場しない絶対専制、独裁君主をめざしたのです。画期的な人物と言えます。

 足利尊氏が離れって行ったのは、彼はもともと北条氏から政権を奪い鎌倉で幕府開いて征夷大将軍になりたかったのです。

 二人は北条政権潰すに、同床異夢だったのです。後醍醐天皇は足利尊氏に征夷大将軍(幕府)を認める訳がありません。

 両者が引かない南北朝時代に入っていきます。

以上

「両統(大覚寺統と持明院統)迭立時代の天皇系図