学者新井白石


 

 新井(あらい)白石(はくせき)の名前は知っている人は多いでしょうが、それでは何で知られているのかについてはうろ覚えの人が多いかと思います。

 江戸時代の有名な学者、政治家として知られています。

 生誕は明暦3年(1657年)で、死没は享保10年(1725)です。

 政治の中枢に係わっていたのは6代将軍家宣(いえのぶ)から7代将軍(いえ)(つぐ)年間の間です。

 それでは当時の政治情勢を見て、白石の事績を先に述べましょう。

 

 徳川幕府も5代綱吉将軍の時代を迎えますと財政逼迫の時となります。

 打ち続く江戸の火災による被害、富士山の噴火による被害への復興資金への過大な支出、長崎貿易での金銀の流出、それに年貢収入に見合わない大奥の経費等の支出によるものです。

小判の金含有率を下げて通貨を発行して幕府に利が増えるようにしました。これがインフレを呼び起こし評判が良くありません。

 さらに生類憐みの令です。これも評判が良くありませんでした。

 

 綱吉は跡継ぎに見込んでいた娘婿の紀州の徳川(つな)(のり)が亡くなり、次期将軍は兄の子の家宣(いえのぶ)に決めました。

 綱吉が宝永6年(1709)1月に亡くなり、家宣が6代将軍に就任しました。

 

 白石は当時著名な学者であったのですが、家宣が6代将軍に決まる前に家宣(甲府藩主、5代将軍綱吉の甥)の侍講(じこう)として採用されていました。 

 侍講は藩主の家庭教師であるとともに、資料招集・編集、藩政の案件への諮問への回答などです。

 通常は家庭教師の仕事がメインです。

 採用された元禄7年(1694)から7年間延べ1299日家宣へご進講がありました。

 内容は、儒教、歴史、漢詩などです。

 儒教は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、書経、詩経、礼教、春秋左氏伝)の講読(教授)です。歴史は日本史、中国史です。

 資料編集としては大名337家の家系を調べた「藩翰譜」(はんかんふ)を提出し、家宣から綱吉将軍にも上程されました。

 家宣は白石の博学、為政者への教えにいたく感銘し、尊崇します。

 

 家宣が将軍になった時の最高位の執政官は間部(まなべ)詮房(あきふさ)です。甲府藩主時代の家宣の小姓から家宣将軍の側用人となり老中より格上で執政をします。

 白石は家宣と詮房から多くの執政上の諮問を受けます。白石の意見は尊重されます。

 政権は家宣将軍、執政官トップは側用人間部詮房です。

新井白石は案件への諮問に回答する立場ですのでライン上の決定権者ではありませんし、決定事項の執政官僚(老中、奉行)ではありません。

 

それでは白石はどのような案件に携わったのでしょうか。

朝廷と幕府の共栄を目指し、天皇家存立の安泰のため皇子の出家を廃し、宮家を新設を認めます。

10代家継(7歳)に霊元法皇の姫の降嫁を具申し、家宣は実行します。

 

 綱吉時代に行われた金貨(小判)悪貨政策を変更、金の比率を高める良貨政策を具申し実行されます。

 内政ではその外に参勤交代での従者の人数を減らす。宿場の助郷の負担減、天領の代官の適不適、土木事業費の見直し等など。

 又裁判についても諮問を受け具申します。

 

 外交では、朝鮮に対し、将軍へ敬称を大君(たいくん)から日本国王(天皇に次ぐ)に改める案、経費節減のため朝鮮通信使(外交使節)の接待の簡素化を具申し、実行されます。

 貿易では銀の流出を抑えるため清、オランダと貿易の制限を具申し実行されます。

 宝永5年(1708)に屋久島にローマ人神父(司祭)がローマ教皇の指示で日本へ布教のためにやって来たのです。

 キリスト教禁教、西洋とはオランダ以外鎖国は、3代将軍家光以来の国法です。

 神父シドッチを江戸に呼び寄せ、白石に聴聞させその上で対処を決めることにしま。白石は西洋事情、キリスト教について聴取します。

 白石は世界地理については参考になったようですが、キリスト教については仏教と同じようなものとして理解しませんでした。

 ただ、シドッチ個人については清廉潔白のインテリとして処しました。

 死刑の意見もありましたが、白石から意見具申でシドッチは下人に世話をさせ、江戸で監禁となりました。

 このシドッチと聴聞内容は、後に白石は「西洋紀聞」と題して文章を残しています。

 

 これが新井白石が侍講として政治への諮問に関わった内容の概要です。

 6代将軍家宣は正徳2年(1712)51歳で亡くなり、後は4歳の家継が後を継ぎますが4年後の享保元年(1716)8歳で亡くなりますのでその間の二代7年のことです。

 家宣亡き後幼い将軍を支えたのは家宣以来のお側用人間部詮房です。白石は詮房の諮問に答える役目でした。

 

 それでは白石は学者としてどのような事績を残したのでしょうか。

 彼の師匠は当時朱子学(幕府公認の儒教の一派)の第一人者木下順庵でその高弟と言われる十哲の筆頭でした。

 儒教の教えに基づき為政者の立場から政治諮問に答えることを基本にしていたでしょう。

 しかし後年今日にいたるまで彼の不朽の文業と言われますのが、歴史学者、地理学者、言語学者、人類学者、漢学者、文筆家としての評価です。

 著作は多いのですが、代表的なものをあげます。

 読史世論  摂関政治から徳川家康による江戸幕府成立までの経緯を徳川政

権の正統性を論じています。家宣への歴史進講の基礎資料です。

 

 藩翰譜  大名337家の家系を調査編集、綱吉将軍にも上程

 

 西洋紀聞  ローマ人より聴取した西洋事情

 

 折りたく柴の記  白石の自叙伝 江戸時代までに書かれた自叙伝では最高

の傑作と言われています。

 

 この外に鬼神論(先祖、神)、東雅(言語)等々あります。

 現在でも江戸時代の歴史を研究する人には必須の史料です。

 

 最後になりましたが、白石の履歴をご紹介します。

 祖先は常陸国(茨城県)下妻庄の人です。父親正済(まさなり)は上総国(千葉県)の久留里藩の土井利直に仕え目付(藩士の監察、政治に関与)の地位に昇りましたが、お家騒動に巻き込まれ辞職して浪人になります。

 白石は号で、名は新井(きん)()です。生誕は明暦3年(1657)、父親57歳の時の子です。

白石は6歳にて漢詩を誦し、1日4千字の手習い、10歳にして低訓(ていきん)往来(おうらい)(初級教科書)を習わされ13歳にして藩主(土井利直)の手紙の代筆、母からは古典の手習いを受け、英才教育をほどこされたと言われています。

父親は学者ではなくただ剛直な武士でしたが、白石は幼い時からよほど学問の天分があったのでしょう。

父親浪人後、江戸で学問に励み、儒学者として名声を博します。

天和2年(1682)大老堀田正俊の侍講に推挙され就任します。父親の正済はその年に亡くなります。ところが大老正俊が江戸城中で殺されます。

白石は元禄4年(1691)堀田家を辞去します。

この堀田家に仕えていた貞享3年(1686)白石は30歳で朱子学者木下順庵に弟子入りします。ずいぶん遅い入門です。木下順庵は当時朱子学の第一人者です。

白石は師から直ぐに認められ弟子の筆頭になります。

堀田家を辞去して浪人中の白石を木下順庵が甲府藩主徳川家宣(当時は綱豊)の侍講に推挙し、仕えることになりました。

仕えた後に思いがけず、主人家宣が将軍になり、上述のように政治の中枢に関与することになりました。

しかし家宣と子の家継が亡くなり、次代8代将軍吉宗の時に中枢から離れます。

後は学者として著述業に励みます。

 

お家は幕末まで続きます。

白石に著名な弟子はいません。白石学は白石一代です。

友人としては朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう)がいます。白石推挙で家宣に仕え後に吉宗に仕えました。

待遇ですが、最終的には知行千石の旗本身分となり官位は従五位下筑後守で官位は大名や高位の旗本待遇です。

家宣の側用人間部詮房は小姓から大名となり、高崎5万石の大名になりました。白石は老中や奉行のような政治の執行責任者ではく、学者の侍講の待遇だったのです。

白石は学問への実証主義を貫き、学問探求へは身分、国籍に隔意なき交際をしながらも、真情を武士、徳川幕府至上主義、信念は儒教信奉者でした。

江戸時代の傑出した学者の一人でしょう。

以上

2022年7月13日

 

梅 一声