エミシ・エゾ・アイヌ


 

アイヌ民族は日本人か、東北のエミシ(蝦夷)は日本人かアイヌ民族か、又エゾ(蝦夷)は何かについて歴史的背景を語ることと致します。

 日本人を含めてこれらの人々のルーツを探ってみます。

 そもそも日本人の元はどこからやって来て、どうやって日本列島に住み着いて日本人になったのかです。

 日本列島に旧石器時代人がやって来たのは今から5~6万年前と言われています。アジア大陸からです。西は朝鮮半島から対馬海峡経由九州そして本州へ、北はアムール川河口からサハリン(樺太)経由北海道から本州へです。

 その頃は氷期で海面が現在より140メートル位低く、間宮海峡や宗谷海峡は陸続きで、津軽海峡は深いので陸続きになりませんが冬季には海が凍りましたので歩いて北海道から本州へ渡れます。

 朝鮮と九州の間も深いので歩いて渡れませんが対岸まで5キロメートル位でしょうから小さな船でも行き来できます。

 この人たちが日本列島に来た後今から1万5千年前から地球の温暖化が始まり、海面は今より高くなり、列島とアジア大陸との間の海峡は幅広い海となり自由に行き来できなくなります。

 縄文時代の始まりです。

 アジア大陸の人々との絶縁状態となり、日本列島の風土の中で縄文時代人は独特の顔立ちとなります。大頭、大顔、大きな鼻骨、あごの骨の発達、奥目、

骨太筋肉質。

 紀元前5世紀まで日本列島人は、北海道から九州まで同じ縄文時代人です。

 旧石器時代にやって来たモンゴロイド(黄色人)が縄文人になったのです。

 

ここまでについてはだいたい学者間で意見が一致します。

さてこれから先紀元前5世紀から朝鮮半島から水田稲作農法をもった新渡来人が大勢日本列島にやって来ました。

水田稲作はたちまち青森県あたりまで普及します。そして新渡来人と縄文人との間で混血の人々が生まれます。

 

顔形は現在の日本人の原形となります。

弥生時代人と言っています。

水田稲作は青森まで普及しますが、その後又寒冷気候で東北地方の北部(青森、岩手、秋田、宮城北部)では稲作が不可能となります。

そして6世紀の初めには又温暖化で東北北部でも水田稲作が可能になります。

 新渡来人と縄文人の混血が北はどこまで進んだのかです。

 古墳時代(3~7世紀)までには水田稲作は太平洋側は今の福島県、宮城県も南部まで、日本海側は山形県の一部まで普及していたでしょう。

 弥生人は当時中国からは倭人と呼ばれ、その後古墳時代からの大和朝廷は和人の漢字を当てはめました。

 これから弥生人は大和朝廷が名乗る和人と称します。

 水田稲作は北海道には普及しませんでした。温帯地域でないと稲は育ちません。亜寒帯地方は無理だったのです。

 従って和人は当時渡島と呼ばれていました北海道には進出しませんでした。

稲が育たない地域には魅力がなかったのです。

 北海道の縄文人は弥生人なりませんでした。そのまま縄文人でその後6~7世紀に、サハリンや大陸の人々と混血があり、独特の顔形になり、文化を作り上げます。

 この人たちを今日我々はアイヌ民族と言っています。当時の和人は東北地方の北部の人々と共にエミシ(蝦夷)と呼び、その後平安末期から北海道(住民)はエゾ(蝦夷)と呼んでいました。

 

 それでは和人とアイヌの境界はどこであったかです。

 和人は弥生時代を経て古墳時代に入り、飛鳥時代になります。

 和人(倭人)が倭国に初めて連合王国を築くのが3世紀中頃の卑弥呼としまして、後は大和朝廷となります。

 大和朝廷は古墳時代には南は九州から本拠地の大和(奈良県)そして関東を統治下にします。

 6~7世紀には宮城県の南部まで統治下にしました。統治は水田稲作が出来る地域です。

 出来ない地域には魅力がありませんので直接統治はしません。

 直接統治しない地域の住民とは中国の統治方法をまねて朝貢外交で間接支配とします。

 東北地方北部の太平洋側では宮城県の北部から北、日本海側では新潟県北部から北は直接統治しませんでした。

 ところが7世紀に入り又気温が上がり、東北北部にも水田稲作が又可能になりました。

 大和朝廷は直接統治にして水田稲作を考えます。強引に侵出を始めます。太平洋側は宮城県北部に向かって、日本海側は新潟県から山形県、秋田県に向かいます。

 原住民に水田稲作を強い、そひて和人を入植させます。

 原住民は縄文時代と同じく自由な狩猟、漁労、採集の生活です。土地を水田にして狩猟を邪魔する和人に抵抗します。

 大和朝廷は饗応や位階を授けて調略しますが、武力も使います。

 この東北の原住民を大和朝廷はエミシと呼び、蝦夷(毛人)の字を当てはめました。

 蝦夷は元々は勇ましい、猛々しいの意味でしたが、従わぬ者の意味で使われました。

 

 それではこの蝦夷と名付けられた人たちは和人なのか、アイヌなのかです。

 二説を紹介します。

 当時大和朝廷に抵抗する東北地方の北方の人々と共に北海道の原住民も併せて蝦夷(エミシ)と呼んでいました(平安時代の中頃まで)。

 東北のエミシはアイヌ説です。

 東北地方の地名に北海道の地名との類似性がある。

 例えば“ナイ”がつく地名。‟ナイ“はアイヌ語で川・沢の意味。北海道では稚内、静内、木古内等、東北でも幌内、長内、三内等数百カ所。

 江戸時代も津軽にアイヌが住んでいた。

 

 東北エミシの和人説

 水田稲作は弥生時代初めには青森まで普及した。

 古墳時代に前方後円墳が青森県や岩手県北部にあった。土師器が出土。これらは大和朝廷の特徴的な文化が青森まで広がっていた。

 

 中間的な説が出ております。著者はこの説を取りましょう

 東北北部はアイヌと和人が共存していた時代が長かった。和人が強制的に

アイヌを北海道に追いやったのでなく、共存の中で混血化し、和人文化圏の中に組み入れられた。

 一つの民族が侵略でその地を統治した場合は、土地の名前は従来の名を廃して新名をつけるのが普通。東北北部はアイヌとの共存関係が続いたのでアイヌ語の地名が残った。

 

次にアイヌについてです。

北海道の原住民族です

この人たちも和人と同じく縄文時代人の子孫です。和人(現在の多くの日本人)は縄文時代人と新渡来人との混血ですが、アイヌはアムール川河口、サハリン(樺太)からの移住の人たちとの混血です。

縄文文化は共通でしたが、弥生時代の水田稲作文化は受けていません。そのまま縄文文化が続き(続縄文文化)、6~7世紀に東北地方の擦文文化とオホーツク文化を受け、鎌倉時代にアイヌ文化が形成されていきます。

河口に住居を構え、狩猟、漁労、採集を生業とします。一部あわ、そばひえを栽培することもありますが、あまり栽培には頼りません。住居は竪穴式から地上住居となり、竈からいろり式となります。

家族は10人位で生活をします。1集団は数十人から多くても数百人位でしょう。水田稲作事業をしないので大集団の必要はありません。

アイヌの北海道での人口ですが、江戸時代の1804年の調査では2万4千人。この人たちが約60カ所分かれて海側河口に住みます。内陸部にはほとんど住みません。漁労(川へ戻って来る鮭)が中心であったかが分かります。

水田稲作をしないので人口が増えません。人口増はわずかもしくはほとんどなかったでしょう。和人との混血で和人化もありました。

男はひげをはやし、女は口の周りに入れ墨をします。

和人との交易は大事です。アイヌからの売りは乾鮭、にしん、昆布、白鳥、鶴、鷲、トド皮等、和人よりは米、鉄製品、酒、こうじ、小袖、木綿の着物等

 

最後にアイヌ、アイヌ民族と日本国です。

日本は単一民族ではない。これは今日一般常識になりました。

和人(日本民族)、アイヌ民族、沖縄民族、朝鮮民族等の混成です。もちろん圧倒的に和人が占めています。沖縄も縄文人から沖縄民族です。

東北では鎌倉時代からあえてエミシ(蝦夷)と名乗らない限り、和人に同化されてしまいました。

アイヌは東北では同化されましたが、北海道では江戸時代もアイヌ民族として自立していましたが、18世紀末からロシアの進出がうかがわれる中、幕府領(日本)の統治が進み、明治政府のもとで完全に日本国となり、アイヌ民族も日本人にさせられました。

現在アイヌ民族は北海道で1万3千人と言われ、少数民族として民族活動をしています。

以上

2020年5月12日

梅 一声