江戸周辺の農村の野菜生産と下肥の話 |
江戸の周辺でももちろん水田による米作は行われていました。水利の関係で江戸の西側では水田が作りにくく、東側の葛西方面が主な水田地帯です。江戸の周辺は水田の適地が多くありませんでした。 周辺の農村は、大麦も生産しましたが、現金収入を求めて巨大な江戸の城下町で売れる野菜類の生産に励みました。 江戸周辺での江戸城下町向け野菜類等の生産物の生産地は三つの地域に分類してお話します。 ○ 第一の地域 江戸の東部から北部にかけての地域(葛西・埼玉・足立郡)です。 この地域は水田での米作も盛んでしたが、野菜の生産も盛んで、江戸向けの葉菜類の生産の中心でした。 特に江戸に隣接する葛西(現在の葛飾区)では葉菜に併せ草花の生産が有名でした。 葉類の野菜は痛みが速く、消費地(江戸城下)急ぎ運ばなければなりません。江戸の東側は運河が発達しており、これら生産物を舟で運んだのです。 その日に収穫した野菜や草花は夕方までに舟に積み、夜中に運航して朝江戸の河岸に着くのです。 水運は速く、大量に運べます。他の地区にはまねが出来ません。収穫した翌早朝に市場に、そして一艘で五十荷運べます。(天秤棒で前後につるして一荷と言い、馬の背に積んで二荷と言いますので、舟一艘で馬一頭の25倍運びます。) ○ 第二の地域 江戸の西武地域の武蔵野台地の地域(豊島郡・荏原郡)です。現在の 豊島区、目黒区、品川区や大田区当たりです。 この地域は水田より畑作が中心でした。大根を中心とする根菜を生産し ます。 江戸城下までは馬か天秤棒で運びます。大量に速くと言うわけには行き ません。葛西とは野菜の種類で競争を避けていたのです。大根やイモ類は 葉菜より日持ちがします。 大根は、練馬の大根、たけのこは、目黒の筍と名産商品を生み出しました。 練馬の大根は味、目黒の筍は寒中早だしで有名になりました。 ○ 第三の地域 江戸の近郊と言われる地域(多摩山地・銚子・佐原) 第一地域と第二地域は江戸城下町の周辺の農村ですが、更にその外の近 郊では加工品を生産します。生鮮野菜の出荷は江戸まで時間がかかるので鮮度維持の上で出荷は無理です。 多摩山地では薪炭や用材、銚子・野田の醤油、佐原・流山のみりんが有 名でした。 次に野菜を生産するために必要な肥料についてです。 野菜の生産性の向上のためには肥料が大事です。当時の肥料の種類は草木の灰・人糞尿・塵芥・厩肥(馬の肥)・刈敷(草、樹木の葉をそのまま敷きこむ)・干葉そして江戸時代後期には干鰯・干鰊・油粕(菜種・大豆の搾ったかす)の利用がでてきます。 江戸時代もっとも有効と言われ、野菜の味も良いものになったのは下肥です。即ち人糞尿です。これを貯蔵して腐熟させ、使用前に草木灰と水を入れて肥料として使用しました。 この人糞尿は江戸の城下町から購入して来るのです。武家屋敷や町家、長屋の共同便所(総後架)等から農家が購入します。 武家では代金の代わりに盆暮れに野菜などを納めることもありました。町家より武家の方が人気がありました。糞も食べ物の中味(栄養価)で肥料価値に上下がありました。 ここで江戸の下水道ですが、下水道は御公儀(幕府)が作る下水、町人が作る下水があり、普段の日常の洗い物の後の汚水、雨の水等を流す溝、どぶ等の下水が整備されていました。しかしここには糞尿はすてません。(一部の小便所の尿は流されましたが糞は流しません) 便所(当時は雪隠とか厠とか呼ばれました)には農家からくみ取りに来ました。売れるのです。汲み取った糞尿は天秤棒の前後に桶を下げて農村に持って帰りました。葛西方面へは舟で運びました。 西洋では下水道に人糞尿もすてました。現在のように汚水処理をしなかったのでこれが赤痢、疫痢の発生の原因となりました。江戸の方が衛生的であった言えますね。 江戸(東京)周辺での下肥の有料はその後明治・大正と続き、昭和の初め頃に無料となり、そしてその後反対にくみ取り代として農家が代金を取るようになりました。これは東京近郊に住民が増え、下肥が東京の中心地の住民に頼らなくても良くなって来たからです。供給と需要のバランスによるものです。 下肥自体は、太平洋戦争後も使用されたが、次第に化学肥料と農薬に移行していきました。 以上 2014年2月10日 梅 一声
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