地名の歴史
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民俗学の大家柳田國男は“地名”の定義を「要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である」としており、一人であの場所が分かれば地名はいらないとされています。
“地名”は国語辞書の広辞苑では「土地の名称」とこれだけです。“土地”
地名は地方行政区域名や住居表示に使われます。古代から同じです。
今日、地方行政区域名の地名は都道府県名、市町村名であってそれぞれの知事、市町村長の行政の管轄区域を示します。地名は個人の住居表示でもあります。
地名は、それぞれ個人の住居地を法的に確定させ(住民、土地所有)、訪問者や郵便などのための用に供します。
まずこの地名と言うのがどのように名づけられて来たのかを見てみたいと思います。
古代も古く大和朝廷が確立される以前から地名はもちろんありました。
その土地の人は自然から土地の区別のために地名をつけました。
お日様の方向からから日向(ひゅうが)、日の岬、日の出、日野。温泉地から湯本、湯の平、湯田川、湯布院、熱川。植物から杉、桃、桜、椿、榎などに後に山、谷、井等をつけます、杉山、杉谷、杉井になります。地形からは川は河内(かわち)、川辺、河合、川俣、河原、川越等、泉は泉、和泉、清水等、原は原、中の原、田原、樫原、三方ヶ原等、滝は滝谷、滝川、滝野等、野は嵯峨野、春日野、武蔵野等、浦は壇ノ浦、勝浦等
もうこれは数えきれないくらい多いです。この地名が国名(日向、河内等)、郡名、郷村名等に使われて行き、今日の市町村名に残っています。
古代では職名が地名になっていった例もあります。
豪族の氏族名としては大伴、中臣、土師(はじ)、物部、職業集団としては石作、鳥取、弓削(ゆげ)、玉造等です。
古代の国、郡、郷名については10世紀の中ごろに編纂された倭名類聚抄に記述されています。
郡は古代古くは評と書き「こおり」と呼んでいましたが、その後郡の字を使い「ぐん」と呼びます。
さてここで古代国家の地名政策を述べておきます。
大化の改新(645年)頃です。
国は68カ国、その中の郡計は588郡と記録されています。
国―郡―郷、その後に里がありましたが里は廃止されました。
国名や郡名は漢字二字で嘉名を使うようにとの命令が出、すべてこれにならいました。
木国(きのくに)は紀伊国(きいのくに)、下毛野国(しもつけのくに)は下野国(しもつけのくに)、无邪志国(むさしのくに)は武蔵国(むさしのくに)としました。肥(火)国(ひのくに)は肥前と肥後にわかれましたので二字になり、同じく越国(こしのくに)は越前と越後に、総国(ふさのくに)は上総(かずさ)と下総(しもふさ)も二字におさめました。
荘園(貴族の私領地)では地名を冠して荘園名を名乗ります。
中世になりますと、荘園の名残から本所、庄内、本荘や別府(べふ・べっぷ)、武士の館から根小屋、垣内(かいと)、寺内町関係で吉崎御坊の地名が出てきます。
近世に入りますと、城下町が形成され、商人地は職業名が地名になります。鍛冶町、大工町、紺屋町、馬喰町等。武家地は御徒町、中間町、同心町、百人町等です。江戸では大名地には町名はありません。
古代から朝鮮に由来する地名があります。武蔵国高麗郡(こまぐん)、明治になって高麗村(こまむら)は高句麗の人の入植で起こりました。
京都に残る太秦(うずまさ)は新羅の人秦河勝(はたかわかつ)によって開発された地です。
外にも奈良県天理市に狛(こま)があります。朝鮮半島からの高麗人関係でしょう。
アイヌ語を語源とする地名もあります。北海道はもちろんですが、例えば東北でも青森県の相内(あいないい)、岩手県の米内(よない)、福島県の長内(おさない)等で「ナイ」はアイヌ語の小さい川の意味です。
そして明治維新を迎え明治政府は地方行政の区画の大改革を行います。
封建制度からの脱却をこころみたのです。
江戸時代の行政区は古代の国ではなく藩単位になっており、国(大和国や武蔵国等)は68カ国ありましたが地域名として使用されているだけで、地域行政は大名の藩が担っていました(官職名として越前守、播磨守等は残っていました)
藩は日本国全体で300程ありました(数は少ないですが一国支配の大名もありました)。
明治に入ってこの藩を廃止して県を設置しました(廃藩置県)。
明治4年3府302県とし、国名と藩制度をやめました。
現在は1都1道2府43県ですね。
県名については従来の藩行政を打ち切るため藩名の使用は認めません。名前は藩のあった郡名や城下町名の多くが採用されました。
郡名からの県名は宮城、茨城、群馬、埼玉、千葉、石川等で全体の3分の1で外は城下町名が県名になることが多かったのです。
ご存知のように県名と県庁所在地名が一致する場合と異なる場合が出来ました。
その理由として朝敵はとされた藩では県名と県庁所在地名が一致せず。薩長土肥とその協力藩は一致すると伝っています。
例をあげますと、
本来は名古屋県名古屋となるところを尾張藩は御三家の徳川家であるところから愛知県名古屋。
本来は仙台県仙台なるところを仙台藩は朝敵とみなされ宮城県仙台。
一方薩長土肥では次の通り県名は藩の城下町名で県庁所在地も同じ地です。
島津・薩摩藩―鹿児島県(城下町名)・鹿児島(県庁所在地)
毛利・長門藩―山口県(幕末、城下町萩より山口に移転)・山口(県庁所在地)
山内・土佐藩―高知県(城下町名)・高知(県庁所在地)
鍋島・肥前藩―佐賀県(城下町名)・佐賀(県庁所在地)
すべてがこの範疇でおさまらず色々の経緯があるようです。
明治維新で旧国名は無くなりましたが、その後名前が再登用されて来ました。
むつ市(青森県)、越前市(福井県)、下野市(栃木県)、甲斐市(山梨県)、伊勢市(三重県)、若狭町(福井県)、摂津市(大阪府)、播磨町(兵庫県)、備中市(岡山県)、豊前市(福岡県)等々三十数市町名で復活しました。
江戸時代の住居表示は国の後に郡、村、小名(こな)と続くのが普通です(関東で郡と村の後に領が入る地域があります)。郡には郡奉行、郡代官が行政府の長で村は庄屋(名主)が管理者です。
明治に入って国(武蔵等)は府・道・県に、郡は郡、村は数村が合併して大型の村になり更に大きな村は市町制に施行、江戸時代の村名は字○○になり、村の下部地域名である小名は小字○○との表示になりました(字をつけない地名もあります)。
江戸時代の郡の数670程でしょう。明治に入り細分化され大分増えました(古代は588が記録されています)。
明治入り江戸時代の村は数村が合併して広域の村が結成されました。明治に22年に7万ほどあった町村はその後合併して1万5千ほどに減らしました。
昭和28年から36年にはさらに大合併がなされ8千から4千になりました。現在は東京の特別区を入れて市町村の数は1759です。
自治を基本に置く地域行政はその財政規模から、効率化から小規模な市町村では運営が難しいのです。
それでは古代から今日までの地名、住居表示、地方行政管轄がどのように変わったかの一例を映画「男はつらいよ」から「柴又」を見てみましょう。
寅さんは”生まれも育ちも東京は葛飾柴又です”と仁義を切ります。
東京都葛飾区柴又です。
葛飾区は東京の東側を流れる荒川そして更に東側の江戸川(千葉県との県境)の間で、北は足立区、南は江戸川区です。
柴又は葛飾区の東の端で江戸川の西側の土手沿いです。
奈良時代は「下総国 葛飾郡 大嶋郷 嶋俣里」その後14世紀には「柴俣」の字を使います(里は行政名としてはその後廃止)。
江戸期には「武蔵国 葛飾郡 柴又村」となります。下総国(千葉県北部)から武蔵国に国が変わります。これは隅田川の対岸の東側の下総国葛飾郡の西半分が武蔵国に編成替えされたためです。江戸城下町が拡張したためです。
ここで「柴俣」の漢字表示が現在の「柴又」となりました。
明治に入りまして、「東京府南葛飾郡柴又村」になり、その後隣り村の金町村と合併し「金町村 柴又」になります。
昭和7年(1932)に「東京市葛飾区柴又町」(1~3丁目)となり、今日では寅さんの言う「東京都葛飾区柴又」(1~7丁目)の行政名、住居表示名となっています。
帝釈天題教寺の参道にある団子屋「くるまや」は7丁目でしょう。
妹のさくらは「寅次郎の休日」の中で柴又の所在を語ります。“武蔵の国 葛飾ごおりしばまた村”と。
葛飾ごおりは葛飾郡(古代古くは評の漢字表示)のことです。武蔵国と言っていますので下総国から編成替えになって武蔵国に編入された江戸時代のお話となりますが、江戸時代は古い呼称の「こおり」は使わず「ぐん」と呼んでいました。
又さくらの衣装がる壺装束にひし垂れぎぬの旅姿(市女笠のふちに薄いカーテンをたらす)でこれは平安、鎌倉、室町時代までで江戸時代の衣装ではないのでお話が古代、中世、江戸時代のいつ時代の頃の想定かが分かりません。
地名やその由来についての話ははてしなく続きますが、ここまでに致します。
以上
2021年9月13日
梅 一声
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