武士と大名
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目次
はじめに
1,武士(侍)の成り立ち
(1)鎌倉時代の侍
(2)室町時代の侍
2,戦国大名の出自
(1)室町幕府の守護から大名
(2)代々領地を持っていた侍から大名
①
守護代から
②
将軍の近臣から
③
国衆・国人から
(3)代々の領地なく出自不詳の者から大名
①
16世紀中ごろに大名になった人
②
16世紀中ごろ以降に大名になった人
3,戦国大名への過程
(1)武士の出世
(2)大名の生き残り
(3)戦場での手柄第一の武士・大名
4,徳川幕府での大名と武士
おわりに
はじめに
大名と言われる言葉は鎌倉時代にもあったのですがその頃は大型の荘園領主、大型の侍を云う俗語です。
小名という言葉もありましたが、大型の侍と普通の侍との間位の規模の侍で、いずれも正式の役職名ではありません。
世間で大名という言葉が普通に使われ始めたのは室町時代になってでしょう。
室町時代に守護が守護大名と呼ばれるようになります。次いで戦国時代の半ばころには戦に勝ち残ってきた所領の大きい大型の武士を大名と言われます。
一国もしくは半国の領主の規模でしょう。
当時戦国大名の呼称はなくただ大名ですが、今日的に戦国大名と呼びましょう。
1,武士(侍)の成り立ち
先ず侍から話を進めることにします。
侍も武士も同じですが、平安時代、鎌倉時代、室町時代は侍と呼ばれることが多かったでしょう。室町時代までを侍と言い、戦国時代から武士と言いましょう。
それでは侍(武士)はどのようにして戦国時代迎えてきたのかを整理します。
歴史的に頂点にたったのは、平清盛、源頼朝、北条時政、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とその一家になります。
その他の侍(武士)はどのように勢力を変遷したかです。
(1)鎌倉時代の侍
侍(武士)は平安時代の後期から武装した地方の領主です。
荘園の下司などの荘官から、そして源氏や平家系の中央の貴族から
侍になりました。
平家一族が国守(国司)として一国以上を支配しましたが、一般の侍
は一村、一郷、一荘園、一郡、その複数の支配で、一国以上の支配は鎌
倉時代になってからです。
侍の支配地は家で直接経営する直営田(佃)と百姓に作らせて年貢
を得る領地(村、郷、荘園)があります。源頼朝に領地を安堵されま
す。
源頼朝は全国に地頭制をしきます。
御家人(頼朝の直臣、後世の旗本)は各地の地頭に任命されます。全国のすべての土地の年貢はいったんすべてを地頭に納めなければなりません、国衙領分(国有地)、荘園領分の年貢は地頭が配分します。
いったん年貢のすべてを地頭が管理するので、御家人という侍である地頭の勢力はだんだん強くなります。
ただ軍事面は別途任命された国ごとの守護が軍司令官として指揮権を持ちます。
守護も地頭職を兼ねている大型の地頭です(御家人)。
一旦戦争になれば地頭、御家人、その他侍は守護の下に馳せ参じてそ
の指揮下に入ります。
この制度は北条氏の鎌倉幕府時代も同じく続きます。
御家人は幕府から地頭職を地元だけでなく全国各地に任命されます。
侍の家は家の子(一族)、郎党(家人=家来)で成り立っていますが、御家人の一族は各地に分散されます。
侍のすべてが頼朝の御家人ではありません。さほど頼朝に手柄を立てなかった荘園の荘官上がりの侍などは頼朝に安堵され侍資格を名乗れましたが御家人にはなれません。
当時侍身分は厳格で頼朝が認めた者だけが侍、御家人資格を得られるのです。
御家人の郎党(戦場では乗馬で戦う一見侍)も主人が頼朝に申請して侍資格を得るのです。
(2)室町時代の侍
鎌倉時代の終わりに後醍醐天皇と足利尊氏が立ち上がり、その後足政
権の室町幕府が出来ます。
尊氏は北条氏打倒で、全国の侍に自分の元に馳せ参じ味方するよう
呼びかけ、そしてその侍を家人にして勝利するのです。
室町幕府が立ち上げられ、幕府は地方を統治するために地方に守護制
を敷きます。
鎌倉時代の守護制は軍事司令官の役でしたが、室町幕府は一国を統治
する権限を有します。
尊氏に味方した侍はそのまま領主ではありますが守護と下に統率され
る領主となります。守護の被官といわれます。
侍たちは尊氏の家来との意識であって面白くなかったでしょう。しか
しこの制度下に入りました。
この被官とは何かですが、この被官から守護の譜代の家来になったり
する者、又外様の家来になったりします。
この被官はその後戦国時代に入り国衆とか国人と呼ばれます。
国衆や国人の中には鎌倉幕府以来の地頭や侍以外に、村の地侍
名主)神主あがりの人たちもいます。
守護と被官の成り立ちから言って守護への忠誠心が薄い、もしくはな
い人たちが多いのです。
しかし足利室町幕府は守護制で侍を統制し政権を打ち立てました。
室町幕府が確固たる強い政権であった時代はこの制度は機能しまし
た。
ここで応仁の乱(1467~1477年)が起こり、乱の終結を迎え
ますが、将軍(室町幕府)の力が衰え、その制度下で守護職であった守護は地元の国の統率がきかなくなります。
守護は応仁の乱の終戦と共に地元に戻り、自力で勢力の回復に励みま
す。
この頃の守護を守護大名と呼んでいます。
しかし、応仁の乱で守護が京都に出征中に、家来の守護代や被官
(国衆)は自身の勢力を増大させており、統率できないばかりか守護を
追い出し勢力を得ようとします。
元々守護代の任命は将軍が任命した職であり、被官も幕府の制度でな
ったもので、被官はもともと侍である自力の領主だったのですから守
護代・被官になって数代たっていてもその勢力維持・拡大のために守護
に従わずあるいは裏切っても罪の意識はなかったでしょう。
2,戦国大名の出自
武士が戦国大名になっていきます。
戦国大名の支配の基準はありませんが、当時大名と言われたのは一国、
半国、もしくは数郡の領地を持った領主でしょう。
戦国時代も時代の流れで栄枯盛衰があり一定しませんが、16世紀中ごろ
1国以上を支配する戦国大名は23か24家位でしょう。
どのように大名なって行ったかを分類して話を進めることにします。
戦国大名を大きく三つに分類します。
一つ目は「守護大名から」、「二つ目は代々領地を持っていた武士から」、
「そして三つ目は「代々の領地なく更に出自不詳の者から」です。
(1)室町幕府の守護から大名
中国地方の大内氏、薩摩の島津氏、豊後の大友氏、甲斐の武田氏、
常陸の佐竹氏それに駿河の今川氏です。
守護大名が勢力を維持しそのまま戦国大名になりました。
一国に原則1守護がいたのですがその他の守護の多くは下剋上で守
護代、被官(国衆・国人)に追われ滅亡します。
江戸時代まで大名として残ったのは島津氏(薩摩、大隅)、佐竹氏
(常陸から秋田へ移封)だけです。
(2)代々領地を持っていた侍から大名。
⓵守護代から
一国で守護に次ぐナンバー2の位置にありました。
守護が京にいることが多くなり、国内で権限が大きくなりました。
守護に代り戦国大名になる武士が出てきます。
織田信長の本家は尾張国の守護斯波氏の守護代でした。信長の父親の信秀は本家や守護斯波氏の勢力をけずり、尾張で勢力を拡大し、戦国領主と言われるようになりました。次代信長はついに斯波氏を追いだし、尾張国を制覇し、戦国大名となり、全国統一に向かったのです。
越後国で上杉氏の家宰(家老・守護代)の長尾氏が守護上杉氏を乗っ取り戦国大名になっています。長尾氏は上杉名を譲られます。上杉謙信です。
出雲を拠点に山陰の雄と言われた尼子氏も京極氏の守護代からです。
毛利氏に滅亡させられます。
越前の朝倉氏(斯波氏の守護代)は斯波氏の守護代で一国を掌握します。織田信長に滅亡させられます。
室町幕府の守護代家の多くが下剋上で国衆・被官に滅亡されます。
江戸時代まで大名として残ったのは越前の上杉氏(長尾氏)と播磨の
有馬氏ぐらいでしょうか。守護大名と同じく江戸時代まで残った大名は少ないのです。
②将軍の近臣から
15代の幕府の吏僚関係からも戦国大名になります。
関東を支配した北条氏です。
豊臣秀吉によって滅亡されます。
③国衆・国人から
鎌倉時代からの地頭や荘園の荘官(下司)、名主からの地侍の武士たち
で室町幕府で守護被官と言われた人たちです。
16世紀中ごろに戦国領主と言われたほとんどの武士は、元守護の被官
(国衆・国人)で、代々の領地を保持してきたのです。
支配規模の順で武士は在地領主、戦国領主、戦国大名の呼称となり、一
村、一郷・一荘、一郡、一国規模で名称を変えます。
領主(武士)はどんなに小さくとも支配地から年貢を得ます。戦闘員
(家来)を持っています。
守護の被官の時は領地は幕府、守護に保証(安堵)されますが、戦国時代は自分で守るしかしかありません。
領地の保全と拡大のため彼らは自分より更に規模の大きい戦国領主、戦国大名を主君に仰いで家来となって仕えるか、国衆仲間で一揆契状を結んで団結して他に対抗します。
大名になったのは安芸国の領主毛利氏(中国地方を支配)、土佐国の長
曾我部氏、北近江の浅井氏、肥前の竜造寺氏、陸奥国の伊達氏。
三河国の松平氏(徳川)もそうです。
この松平=徳川氏が戦国時代を制しました。
松平氏の出自ははっきりしませんが、三河の松平郷から立ち上がった地
侍から豪族になって行き、家康の時に戦国大名になったのです。
江戸時代に大名に名を連ねた人たちは自らもこの分類からを出自にしている人が多いです。
(3)代々の領地なく更に出自不詳の者から大名
名もなき人たちからも戦国大名になりました。
大名や大型の領主の家来から手柄をたてて昇進していった人たちで
す。
①
16世紀中ごろまでに大名になった人
自力で戦国大名になった大和の松永久秀や美濃の斎藤道三(二代
目)もいます。
松永久秀は三好長慶の家臣になり大和国の大名になります。
斎藤道三は美濃国の土岐氏の家臣西村氏の家来となり、その後土岐氏の家臣となり土岐氏を追いやって美濃の大名になりました。
いずれも主家を裏切り、あるいは乗っ取って大名になります。
②
16世紀中ごろ以降に大名になった人
中国では毛利氏の支配体制が出来、関東東海では北条氏、武田氏、
上杉氏。今川氏が覇権を争います。
織田信長が桶狭間で今川氏に勝ち歴史に登場します。
戦国大名は自立の領主です。大名間で同盟を結びますが、家臣ではあ
りません。
16世紀中ごろまでに戦国大名になった人の出自は上記で記述しまし
たように分類されますが、時代が進み織田信長政権時代、豊臣秀吉
政権時代、徳川家康政権時代になりますとその有力家臣が大名並の
領地を得ます。家臣ですので自立している戦国大名ではありません。
信長の家臣では柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益、池田恒興等です。
信長が光秀に殺された(1582年)後は、上記の信長の家臣たちは
自立した戦国大名になります。主家から独立したのです。
秀吉と光秀は「代々の領地なく更に出自不詳の者」です。
豊臣秀吉が天下を治めると、秀吉の子飼いで戦国大名並みの領地もっ
た家臣が出来ます。加藤清正、福島正則、石田三成等です。
彼らも又「代々の領地なく更に出自不詳の者」です。
彼らは秀吉没(1598年)後自立した戦国大名になります。
次いで徳川家康が天下をとります。
家康にも戦国大名並みの領地を持って家臣が出来ます。
戦国大名及び家康の重臣は家康の下で徳川幕府の大名制度の下での
大名になります。
江戸時代の大名制については後述します。
3,戦国大名への過程
(1)武士の出世
いずれの武士も先ず戦場で強くなければなりません。
最下級の武士でも自分以外に徒士侍一人と数人の小者を必ず引き連れ
て主君の下に馳せ参じ戦場に赴きます。
最下級の武士で百石取りとしますと、自分は騎馬で、従者は4人が
必要です。計5人が1セットです。主君に仕えるための最低単位
です。従者は、徒士侍(歩兵の侍、現在の下士官クラス)1人、
轡取り、槍持ち、鎧櫃持ち各1人の計4人です。
この計算では千石では自分を入れて騎馬侍は10人、その外徒士侍等
小者を入れて総勢50人の軍勢となります。
これが戦国時代の武士の石高(支配領地)当たりの軍勢拠出のおおよ
その標準です(豊臣秀吉が定めた基準)。
戦場では50人位では一画、一翼を任せられません。大きな組(隊)
に入ってその部将の下で戦います。
戦で手柄を立てれば領地が増えます。増えれば家来が増えます。更に大きな手柄が期待できます。
騎馬武者の首を取る、一番駆け、城への一番乗り、敵将や騎馬武者の
殺傷や捕獲、敵を城から追いやる、戦場から追いやる。手柄になります。
主君がその戦に勝利し敵の領地を奪い取れば、それが恩賞の基になり
ます。
奪えなければ原則恩賞はなしです。
まれに主君が直領をけずって恩賞にすることもあります。
これを繰り返しだんだん領地が増えますと大型の領主となり、主君か
ら独立できれば大名と言われるようになります。
毛利元就は同列の周辺国人と一揆を形成してそのリーダーとして勢力
を拡大したと言われますが、それもありますが、やはり戦国大名の大内氏
の家来として戦場で手柄を立てて領地を拡大して勢力を広げたことが大
きいのです。
主君のおそばに仕えて、主君の軍師、参謀(ふところ刀)では戦場で
なかなか手柄立てる機会がなく、多くの加増(領地拡大)は望めませ
ん。
そして主君が戦闘に強くなければなりません。
主君と仰いだ主人が更に有力な大名、豪族と結びつき、勢力を広げ戦
いに強い主君人を持つこが大事です。
主君を変える武士がいます。
戦国時代には守護大名の被官から守護代や有力豪族の家臣になって行
った武士。さらにその豪族から離れて別の有力な豪族に主君を変えた武
士。
武士が有力豪族になれば自力で立つこともあります。その場合は他の
豪族と同盟(一揆)を結び他に対抗します。
有力領主の領地拡大競争のそのはざまで主君を何度も変えた武士。
戦いごとに主君を代える武士もあります。
何代も同じ主家に仕え、譜代の家臣となっていった武士。例えば 徳川家の大久保家、本多家、酒井等。
主君を変えて功労抜群で大名になった福岡藩の黒田家。
出自不詳で一代で大名になった豊臣秀吉、明智光秀。
地域の武士たちと同盟、一揆をこしらえ、その中で主導権を取ってい
った武士。毛利元就。
自力で主家を乗っ取った武士。織田信長、豊臣秀吉、毛利元就、斎藤
道三。
(2)大名の生き残り
大名になっても戦に強くなければ存続は出来ません。
戦に強い家来を持つことは大事です。
大名になりますと自立するといえども、自分の勢力の維持拡大、更に
は天下を狙うために、大名間で同盟を結ぶか、より勢力ある大名に臣従するかの政策を選びます。
戦国末期は天下を狙う大名は少なくなります。
豊臣秀吉か、明智光秀か柴田勝家か、豊臣秀吉か、毛利輝元か石田三成か、徳川家康か大名は都度選択を迫られます。
これがうまくいって江戸時代まで家名が存続できたのです。
(3)戦場で手柄第一の武士・大名
戦国時代末期になりますと、大名の名称はその領地は以前より小さく
なり1万石ぐらいの領主が目安となっていました。
豊臣秀吉、徳川家康時代です。
大名はどちらの政権においても臣従の形をとります。
1万石の大名とはどの程度の規模だったのでしょうか。
自分の領地から1万石の米の収穫がありました。一町歩で10石取れるとして千町歩(300万坪)の田んぼを支配し、そこから年貢をとれる人です。
年貢を3割としまして3千石を得られます。その上に畑からの収穫物(野菜、果物)や特産品(布、紙、漁獲類等)が年貢として得られます。
行政区画として言えば郡の中の1郷(村の集合体)位でしょう。
軍事力としては500人位の兵員を抱えていたでしょう(江戸時代は
少なくなり200人位)。
因みに超大型の大名徳川家康は戦国時代は400万石ですので20万人の動員力となります。
武士・大名は主君の側近で馬廻り、旗本であっても、又軍師、ふとこ
ろ刀と言われる参謀でも、戦場で手柄がないと、勝戦でもそれほど加増
はありません。
武田信玄の参謀と言われる山本勘助は足軽組頭で百石程度でした。
黒田官兵衛は戦場で手柄も立てましたが、豊臣秀吉の下で参謀のことが多く関ケ原の戦い前で12万石(地盤なくスタートした加藤清正は20万石)でした。徳川家康の懐刀、参謀の本多正信は1万石程度で有名な割に知行が少ないのです。
黒田家が52万石の大大名になったのは官兵衛の息子の長政の関ケ原の戦いでの戦功によるものです。
石田三成は戦功がたいしことがないのに秀吉から吏僚としての才能を認めら19万石を宛がわれていました。加藤清正と同じぐらいの知行を秀吉からもらい、多くの武将から反感をかっていました。彼は例外です。
4,徳川幕府での大名と武士
戦国大名の支配の基準はありませんが、当時大名と言われたのは一国、半国、もしくは数郡の領地を持った領主でしょう。
制度ではなく尊称でした。
戦国末期には1郡支配に満たない郷の支配の1万石ぐらいの領地の武士もも大名とか小名とか言うようになりました。
江戸時代に入り幕府は大名制を取り入れます。制度です。
江戸時代初期には1万石から5万石未満の知行領主については小名と言っていたのですが、その後1万石以上は大名の名称に統一されました。
徳川幕府の大名は官制上の格であり、参勤交代の義務もあります。譜代の大名は老中にもなれます。
武士のことですが、戦国時代までは武士は小さくとも領地を持つ領主で、騎馬に乗る資格がある騎馬侍のことでした。
徒士侍は徒歩で戦場に行き、主人の騎馬侍を護衛し、足軽を指揮して戦います。徒士侍は現在の軍の下士官でしょう。それ以下の足軽は兵卒です。更に雑用係(運搬)の仲間・小者は正式の武士には入れませんでした。
この人たちは領地を持ちません。通常一代限りの雇用です。給与は米の現物又は銭で払われます。
江戸時代になり、この内、徒士や足軽は平素腰に両刀をさす武士の位を得ました。
徳川幕府では大名、旗本、御家人と家来を格付けします。大名、旗本は当然武士です。徒士は与力、御徒士の身分で中級格の武士として、足軽は同心の身分となり、下級武士として役人の仕事につきます。
徳川幕府では上級の騎馬侍は旗本、下級の武士は御家人と呼ばれます。
上級、中級、下級武士の格付けの仕方は藩によって違います。
例えば土佐藩では武士は上士と下士に分かれそれぞれ更に分かれ、更に下士身分は白札(武市半平太)、郷士(坂本龍馬)、徒士等に分かれます。
江戸時代では戦国時代のように(騎馬)侍、徒士、足軽との区別はなくみんな武士と称しますが、その中で細かく身分格差がありました。
おわりに
明治に入り大名は爵位(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)を得ます。恩給がつきます。その他の武士は士族で平民の上の格となりますが、一時金は出ましたが、特に特権はありません。
しかし二刀さしているが同心など下級武士は士族に入れてよいのかの議論が出、一時卒族(兵隊の兵卒)の呼称を付しましたが、反発が出て士族に入れました。
武士と大名を徒然に綴ってみました。
以上
2024年8月28日
梅 一声 |