武士の誕生から鎌倉武士


江戸時代の武士についてのイメージは皆さんのお持ちのそれとしまして、そもそも武士はどのようにして誕生したのか。そしてその後の武士の基本形である鎌倉武士がどのようにして出来上がったのかを見てみたいと思います。

 「武士」という語は奈良時代には現れるのですが、その頃は武人、兵士、武官、兵(つわもの)と同類の意味で使われていました。

 平安時代の前半9世紀末、関東・奥羽地方では蝦夷(えみし)の反乱続きその鎮圧が迫られます。

 この頃律令制度が行き詰り、全国徴兵制度が機能しません。中央軍の結成が出来ません。朝廷は下級貴族の中で武芸に秀でた者を鎮守府将軍に任命して鎮圧をまかせてしまいます。 

 まかせられた武芸に秀でた貴族は、自分の家人(郎党)と共に坂東(ばんどう)(関東)で兵を集めて蝦夷討伐を行い勝利します。

 ここで武芸に秀でた貴族の存在価値が高まります。

 そして貴族の武芸集団として桓武天皇系の平氏の祖(高望(たかもち)(おう))や清和天皇系の源氏の祖(頼信)が軍事貴族として登場します。

 一方地方においては9世紀ごろから寄進型荘園が進みます。寄進型荘園とは

地方の有力者が土地を開発して田地とし、その田地を領有化するために中央の

有力貴族(公卿)や寺社に本家、領家という領主になってもらい、自分は在地領主(下司(げす)になって年貢を三者で分け合う形の荘園です。こうして荘園を国(朝廷)支配から逃れ自分の私領にしてしまうのです。

 

地方の在庁の官人(郡司や郷司等)が私的に荘園を開発すると共に中央から派遣された国司((かみ)(すけ)(じょう)(さかん))が土着して、荘園の開発領主となり勢力をもちます。

 坂東(ばんどう)(関東)において平氏の始祖である桓武天皇の四代高望王が上総(かずさの)(すけ)として赴任し、任期が終わった後も武芸に秀でたその子孫(平氏)が土着して荘園の在地領主として勢力をのばします。

 これらの武芸の秀でた人が地方で荘園を開発してその在地領主なった人を

「武士」と言うようになりました。

 「武士」はこの時代に現れた軍事貴族と言えます。

 地元出身の官人(役人)が私的に荘園を開発して在地領主として「武士」になっていった者よりも、平氏のように中央から国司(武蔵守、上総介等)に任命されて退任後に土着して在地領主となり「武士」になった方が大きな勢力となりました。

 

 しかし10世紀に入り、高望王の後の平氏一族は勢力が幾つかに分かれ内部紛争が起こります。

 ここでかの有名な平将門(たいらのまさかど)上総国(千葉県南部)で挙兵し一族に攻め勝ち、勢いに乗て下野(栃木県)、上野国(群馬県)国衙(朝廷の地方国の庁舎、今の県庁)をも攻め国司を追放しました。

 そして自分を、関東を治める新皇(しんのう)と称しました。

 朝廷はこれを現地の有力武士団平氏一族の貞盛と藤原秀郷(ひでさと)鎮圧させました。

 

 しかし11世紀に入り平氏は又内部抗争を起こし、(たいら)(ただ)(つね)が乱を起こしました。

 今度は朝廷は京都より忠常討伐のたに源頼信(みなもとのよりのぶ)を追討使として派遣し乱を鎮圧しました。

 武士団の反乱に対し朝廷は武士団を当てる方法を取らざるを得ませんでした。朝廷に自前の軍団がなかったからです。内裏や院を守護する程度の武者しかいませんでした。

 武士団の朝廷内での地位は荘園の在地領主としてだけでなく必要な武装軍団として地位を高めていきます。

 源氏は関東への進出は出遅れていました。しかし平忠常の乱で源頼信が鎮圧したことで関東で一定の勢力を得ました。

 そこに11世紀の半ばに奥羽で安倍一族の反乱と、続く清原氏の内部分裂の騒乱が起こります。

これを前九年・後三年の役と言っています。

 これに対し朝廷は鎮守府将軍として京より源頼義(みなもとのよりよし)そして息子の義家(よしいえ)が派遣されます。

 頼義、義家親子は父が信頼を得ていた関東の平氏一族から兵を募り、奥羽で決戦し鎮圧に成功します。

 親子は朝廷からも評価されますが、関東の平氏一族も恩賞に浴し、源氏は平氏に感謝されます。

 その後関東の平氏一族等の紛争の裁定に源頼義は尽力し平氏一族から感謝され信頼されます。

そして後三年の役では朝廷から恩賞が出なかったのですが、義家は自分の所領地を投げうって参戦の平氏一族等関東の「武士」に報いました。

 これで関東の平氏等の「武士」は源氏びいきになりました。

 

 しかしながらこの後、中央の軍事貴族としての源義家の子為義(河内源氏)も平氏(伊勢平氏)も京都で勢力を延ばすことが出来ません。

 12世紀中頃に源為義(みなもとのためよし)の子(よし)(とも)(より)(とも)の父)が関東に出向き源氏の勢力再結集を図り成功し、京に戻ります。

 

 この頃、院政でしたが、天皇の後継問題で政治情勢は危うく、保元の乱

(1156年)、平治の乱(1159年)と続きます。

 保元の乱では源義朝と平清盛(河内平氏系)味方同士勝組になりました、次の平治の乱では敵味方となり、結局清盛が勝ちました。

 清盛はこの勢いで朝廷での実権を得て初めて「武士」の政権を作りました。

 負けた義朝は関東に逃げる途中に味方に謀殺されました。息子の(より)(とも)生かされ伊豆に配流となりました。

 しかしご存知のように源頼朝は伊豆で立ち上がり平清盛一門を討滅して鎌倉幕府を樹立します。鎌倉時代の始まりです。

 これまで鎌倉幕府の設立は頼朝が征夷大将軍就任の1192年(建久3)としてきましたが、今日では1185年(文治元年)の平氏滅亡、頼朝に守護・地頭補任の勅許(天皇からの許し)を以って鎌倉幕府設立が通説になりつつあります。

 

 さて「鎌倉武士」です。

 「武士」の誕生については上述しました。「武芸に秀でた人たちで、荘園を開拓して在地領主になった人たちです」

 しかし「武士」はこれだけでは「武士」になれません。この時代の「武士」は一般の人((ぼん)())ではなく貴族ではありませんが、公認の地位でありました。 

誰が公認するのか、当初は朝廷で、次いで地方の国司、鎌倉時代は頼朝が認めた者だけです。

 

 関東の「武士団」を整理します。

 一番は頼朝を惣領とする源氏の一族です。息子(頼家、実朝)、兄弟(範頼、義経)、源氏一族(足利家、武田家等)

 二番は頼朝が立ち上がり、平家滅亡に味方し、義経や奥州藤原氏滅亡に貢献した「武士団」、この「武士」を御家人と言います。家来のことです。

 主力は関東の平氏系の「武士」で、三浦、大庭、和田、上総介、千葉、江戸、畠山、小山田氏等です。平氏以外では藤原氏(関東の)や武蔵七党の武士団(規模の小さい武士の集合体)等です。

 三番目は頼朝に敵対はしなかったが、功労がさしてなかった武士たちです(荘園の在地領主)。

 

 頼朝は「武士」の中から功労者を御家人して、恩賞(領地)を与え、地頭に任命して、地域の年貢徴収権を与えました

 

 それでは「武士」の一家の戦闘体制はどのような構成になっていたかです。

 主人の下に家の子(男子、兄弟、親類)、郎党(郎等、郎従)その下に所従、下人(げにん)と続きます。鎧兜を着けて馬に乗って弓矢で戦うのは主人と家の子、郎党です。その外は歩兵で主人、家の子、郎等を助ける補助の兵です。武士ではありません。

 主人と家の子は「武士」です。郎等は馬に乗って「武士」の恰好はしますが、必ずしも「武士」の資格を持っていません。「武士」の場合もありますがそうでない場合が多いのです。

 主人が郎党を武士の資格に引き上げたい時は頼朝の承認を得なければなりませんでした。

 自分の家来である御家人はもとより、一般の「武士」の認定にも頼朝は採決権を持っていました。

 この時代勝手に武士を名乗れませんでした。武士は取り調べで拷問されない。咎に処せられる場合、侍に所領がある場合は所領没収、ない場合は流罪、一般の者は禁固刑と法律上の処遇に一般の者と差があります。

 

 「武士」は大きくても小さくても基本的には領主です。鎌倉時代の「武士」は家の周りを堀、塀、溝で囲み、家の近くの農地は郎党や下人を使って直営でした。((つくだ)と言います)

 直営の農地の外側の領地(ほとんどの領地)は百姓に作らせ年貢を取りました。

 鎌倉時代を経て室町時代、戦国時代、江戸時代と「武士」の時代は続きます。「武士」が武芸で身をもって主人へ奉公して、御恩(領地、給与)を得る基本的な仕組みは変わりません。

 しかし戦国時代には本人の才能や縁故で大名の家来になって武士の道に入って行く方法はさして難しくはなかったでしょう。江戸時代に入りまして「武士」の身分が特権階級となり、固定化されます。

 但し、江戸時代の武士は領地をもっている武士は大名、旗本や高禄の武士だけです。後の「武士」は俸禄米(米の現物支給)での給与でした。

 鎌倉時代の」武士」は誰でもなれる身分ではなく基本的には領主であって社会的には公認の特権階級でありました。

以上

 

2017年7月23日

 

梅 一声