武士道の謂れ

 


 


中世、近世に活躍し、政権を取り、政治を仕切ったこの武士とは何だったのかについては、弊ホームページ短編集「閑話そぞろ歩き」の“さむらいと武士について”(2013年8月12日)、“武士の誕生から鎌倉武士”(2017年7月23日)、“ヨーロッパの騎士と日本の武士”(2018年2月20日)をお読みいただければと思います。

 

ここでは江戸時代に言われ始め明治時代にも話題になりました「武士道」とは何であったのかを見てみたいと思います。

武士階級の道徳のことなのですが、決まった定義や規則はありません。

中世の武士は弓矢(きゅうし)の道、弓馬(きゅうば)の道、(つわもの)の道の人と言われます。

弓矢、馬に長け、戦士を職業とする人々と言う意味です。

戦国時代の武士も同じです。戦いを主な仕事とする人々です。戦って勝たねばならない人々です。

勝って、手柄をたてて知行(領地)や俸禄(米・銭)を主君から頂くのです。基本は御恩と奉公の関係です。

しかし江戸時代に入り、1638年(寛永10年)の島原の乱平定以来幕末騒乱までの220年間程日本では対内外とも戦争を経験しません。

泰平の世となったのです。

武士には戦士としての役割がありません。しかし主君たち(将軍、大名等)は政権を取りますので、一般の武士は官吏として主君に仕え行政の仕事に就きます。

 戦士でない武士に何を求められるかです。

 行政府としての幕府、藩は官吏として優秀な武士を求めます。主君と家来は主従関係の強化を求めます。主君への忠誠が大事です。

 戦国時代は戦争に強いものが出世します。

 「主を七たび代えて一人前の武士」等と豪語する武士もあったようです。

 

 江戸時代に入り武士道の用語を使いだしたのは兵法書「甲陽軍鑑」を著した小幡景憲と言われています。

 戦国時代を経験した武士です。

 戦国時代の武田氏を懐古しての記述で、泰平の武士を考慮していません。

 次に著された武士道は士道と言い、山鹿素行著の「山鹿語類」(1665年―寛文5)に記述があります。

 山鹿素行は当時第一級の儒学者で、朱子学から陽明学に転向した学者で、朱子学一辺倒の幕府に嫌われ播州赤穂の浅野家預かりにされた仁です(忠臣蔵の大石内蔵助一派は素行に影響を受けたとされます)。

 “農民は食物を生産し、職人は器物を作り、商人は交易して役に立つ。武士はしないで利を得ている。人倫の道で農工商の見本とならなければならない”

 人倫とは孟子の言う、君臣、朋友、父子、兄弟、夫婦の道を正しくすることです。

 山鹿素行は儒教道徳を武士社会に取り入れ、泰平の社会の武士の道徳を説きました。

 この思想が朱子学と共に江戸時代の武士道論の基幹になったとされています。

 朱子学の武士道は主君への「忠」を強調します。

 儒教では五常を基本とします。仁、義、礼、智、信です。

 仁は愛、義は正義、礼は礼儀ですが本来は主君の臣下への礼です、智は知恵、英知で、信は友人間の信頼の大事を説いています。

 朱子学ではこれに忠孝が入ります。忠は主君への忠誠です。孝は親への孝行です。

 忠と孝と選択しなければならない時は孝が優先します。

 しかし日本の朱子学(林羅山)は忠が優先します。

 これが武士道に入り、忠は武士道の中で一番の重要項目となります。

 

 武士道と言えば「葉隠」のすごさをご存じ方もいらっしゃるでしょう。

 佐賀鍋島藩の山本常朝(1659〜1721年)の言葉を田代陣基(つらもと)が筆録したものです。

 有名な言葉として

 “武士道と云うは死ぬことと見付けたり”

 “生か死かの問題になった場合には即座に死地に突入せよ。

 “犬死と云うは上方の武道(武士道)”

 “普段から死人であるという観念に徹する=常住死身”

 “奉公とは死ぬこと”

 “生命への執着、自己愛を捨てる=死狂(しにくるい)

 

明治に活躍し、総理大臣にもなった同藩出身の大隈重信は”実に奇異なるもの、異端武士道“と言っています。

今日でも一般的には極論とされています。

常朝は藩主光茂の側近で光茂が没した時に殉死を希望しましたが、規則で禁じられており、出来ませんでした。

戦場の経験はありません。66歳で畳の上で往生しました。

筆者は、常朝が言いたかったことは泰平の世になり戦の経験もなく安穏と暮らす武士たちへの警鐘のつもりで極論を述べたのではないかと思います。

しかしこの常朝の武士道論に心酔した人がいます。

昭和45年に陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地に立てこもる事件を起こし、自殺した三島由紀夫です。

三島は「行動の純粋性、情熱の高さから来る死はすべて肯定している。」として葉隠に強く引かれたようです。

 

最後に明治の教育者・農業学者で名士新渡戸稲造稲造が著した「武士道」の武士道論です。

この本はアメリカで明治33年(1900)に英文で発行されたものです。

英文タイトルはあ「BUSHIDO The Soul Of Japan」です。その後日本語の翻訳本「武士道」が出版されました。

新渡戸稲造の出版の意図は、アメリカ滞在中に“日本には宗教道徳がないのにどうやって道徳を教えたのか”と問われ、武士道の道徳を著そうとしたのです。  

書き著し方は、武士道は騎士道と同じく封建制か生みだされたもの、キリスト教や騎士道でも重んじられるフェアプレイ精神、自制心、他者への思いやりは共通していることを基にして又それらとは逆に異なる点も説きます。

武士道の源流は儒教、仏教、神道。

騎士道は道徳的なものをキリスト教より導入。

勇気、仁(愛)は武士道も騎士道もうたう。

負けた人への愛は武士道もキリスト教も同じ。赤十字運動は日本では心よく受け入れられた。

礼儀正しさ。

真実と誠実=武士に二言はない。

名誉を重んじる。騎士も

武士は主君への忠義の義務は絶対。

教育と訓練=剣術、柔術などの武術、書道、歴史。算術は重んじない。

切腹は法的かつ儀礼的な制度

 武士が罪をつぐない、誤りを詫び、恥をまぬがれ、自分の誠を証明する行

動。

 介錯は死刑執行人ではない。咎人の身内又は友人が行う。

 モーゼやシェクスピアも腹に魂がやどることを言っている。

仇討ちは倫理的衡平裁判所。

刀はサムライの魂、力は武勇の象徴、刀の美は畏敬と恐怖

 

これをもって武士道の定義としてよいのかは明治時代の人も認めたわけではありません。

しかしこれが江戸時代の武士のおおよその行動規範、道徳と言えるかもしれません。

 

明治以降の武士道の行方です。新渡戸稲造の「武士道」も出版されましたが武士のいない時代の中で武士道は人気がありません。代わって「大和魂」の用語に引き継がれ普及します。

昭和に入って「大和魂」は軍国主義に利用され悪名になり、今日では武士道も大和魂も人気のない語になりました。

しかし時代劇では武士道、士道の語は使われますね。

それにワールドベースボールクラシックの日本代表の愛称は“侍ジャパン”ですが、侍は何を意味するのでしょうか。

以上

2024年1月13日

梅 一声