武家の家督相続


 歴史的には相続には家督相続と遺産相続があります。

 遺産相続は財産の分与です。

 家督相続の家督は惣領とも言い、当主の地位を継いで一族一門の棟梁になる人(嫡男・跡目)のことです。

 ただ、室町時代あたりから相続は嫡男の単独相続となり、当主の地位を継ぐとともに財産もすべて受け継ぐ単独相続になって行きます。

 現在の民法は家督相続はなく遺産相続だけです。

 

しかし歴史では家督相続にはルールがありそうで、はっきりしないところがあり、一族、家臣でもめることが多々あります。これがお家騒動になることがあります。

 

それでは古いところから源頼朝家です。

この頃は家督相続という言い方よりも家督を相続する者を惣領(そうりょう)(総領)と言ってました。

頼朝自身は源家宗家の嫡出()の三男で兄二人が平治の乱で戦死、処刑されましたので源家宗家の嫡男となりました。嫡出とは正妻の子です。繰り上がって本宗家の嫡男になりましたので惣領(家督相続)になるのが順当です。

弟が3人はいましたがいずれも父義朝の側室の子です。頼朝が平家に向かい立ち上がり勝ったのですから嫡男として家督相続は何も問題はありませんでした。

しかるに義経が兄に謀反を起こし惣領奪取を目論みましたが、頼朝の武力で滅亡させられました。

彼は自分にも惣領になる資格があると考えたのでしょう。

清和源氏本宗家は義朝()から頼朝と言えるのですが、義朝の弟の子の義仲(木曽)も、弟の義経も更に武田源氏も力があれば源氏惣領の名乗りを挙げることを考えていました。

頼朝は本宗家の嫡男として血筋と武力で惣領を名乗ったのです。

頼朝は他の源氏の筋には大変警戒しました。

 

頼朝の後は嫡出の長子の頼家が惣領となります(2代目将軍)。正妻政子の子ですので順当です。しかし次は頼家の子への惣領相続が普通でしょうが、そうはなりませんでした。

政子は惣領頼家(二代将軍)とその頼家の嫡男一幡(孫)を殺し、自分の二男の(さね)(とも)を惣領にしました(三代将軍)。頼家には外に息子が二人いました。

しかし直系親子相続とはしませんでした。北条政権の維持のためです。

実朝は兄頼家の次男の()(ぎょう)に暗殺されます。公暁は実朝暗殺実行後惣領(将軍)自分だと誰かに言われていたとの説があります。

政子の順不当な惣領の起用のさせ方が、頼家の子による叔父の実朝暗殺を呼び起こしたものと言えます。

頼朝の源氏は滅亡です。

 

次に鎌倉時代の御家人の相続です。

この頃の相続は一族の統率者の地位を受け継ぐ者を嫡子(後世の嫡男)と言い、惣領になります。

嫡子・惣領と呼ばれる一族の統率者になる人は能力がある者が当主の子から選ばれることになっていますが、優先順位は長子からです。

嫡子が決まるとその外の男子は庶子と言われます。この時の庶子は正妻も側室の子も含めての意味です(後世の庶子は側室の子、正妻の子は嫡出子)。

家を継いだ嫡子である惣領には鎌倉幕府へ一族の代表者としての責任があります。公事や軍役負担を一族(庶子)を統率者して奉公しなければなりません。

財産相続とは別でした。

親の財産は庶子、女子を含めた分割相続です。惣領は財産を多めにはもらいます。

女子は財産をもって嫁に行きます。夫の財産とは一緒になりません。女子に子が出来ずに亡くなった場合は夫はその財産を実家に戻さなくてはなりません。

 

この鎌倉時代の相続方法を何回も、繰り返しますと、惣領家の財産が減る一方になります。又庶子家も財産が分散し小さくなり、惣領家も庶子家も弱小化します。更に御家人の財産は日本各地に分散しており、惣領家から離れた庶子家と大本の惣領家と関係が希薄化してきます。(頼朝や北条氏が支配を広めた結果、御家人の領地が全国に分散)

惣領家の統率力が弱まります。

鎌倉幕府としては軍団の形成上問題となりました。

 

室町時代から戦国時代です。

鎌倉時代の惣領制では遺産の分割相続によって惣領家に強い統制力が伴わないことから嫡男(惣領)による単独相続制が行われるようになります。

嫡男(惣領)が身分も財産もすべて受け継ぐ制度です。

嫡男でない正妻の子の嫡出(子)も側室の子の庶子も惣領に従属し、被官(家来)と変わらない体制が出来て行きます。

 

これを家督相続制と言います。

それでは子供の内誰が家督相続するかです。

室町時代は当主(親)、重臣が相談して決めます。それに守護の場合は室町将軍が口を入れます。

正妻の嫡出子が先順位で長子、次子の順となります。側室の子(ここでは庶子)はその後の順になります。

一応こうですが、重臣や将軍の意向により、次子や庶子が家督相続候補となり混乱します。

 きちんとルール化していません。お家騒動となります。

 これが応仁の乱の一つの原因ともいわれています畠山家と斯波家の家督相続では収拾不能となりました。

 どちらも親と将軍、重臣を巻き込んでの兄弟の家督相続争いです。

 

戦国時代での家督相続の様子を織田信長の場合で見てみましょう。

信長の兄弟は12人と言われています。

信長の母は父信秀の正妻の土田(つちだ)(どだ)御前で、その長子ですので、生まれてすぐに信秀から嫡男、家督(跡取り)に決められていました。

同母弟には信勝(信行)がいます。

更に信秀の側室の子もいます。一人は信長より年長の庶兄になる信広が知られています。

しかし年長でも正妻の長子が嫡男(信長)となるのがこの時代の順序です。

父信秀が信長を家督相続に決めたのもこの時代の習い通りだったのです。

ところがこの時代家督相続は兄弟の中で適任者であるべきとの考えもありました。

信秀が死没し、信長が家督相続をした後に信長を廃して、同母弟の信行を当主にしようとの一派が立ち上がり争乱になりました。

実母の土田御前が仲介して納まりました。実は弟信行一派の首謀者は母親であることを信長は知っていました。

これでは今後とも収まらないと考えた信長は、自らの手で弟の信行を殺しました。

 

次に信長が本能寺で討たれ跡の織田家の家督相続です。跡取りは嫡男信忠が決まっていました。信長生前に家督相続をしていました。しかし本能寺の変の時に信長と共に明智光秀に討たれてしまいました。

家督相続には信忠の弟の信雄と信孝が手を上げました。しかし重臣たちは清須城会議において信忠の子の三法師を決めました。

豊臣秀吉が仕組んだ結果だという説もありますが、これは当時としては直系親子の家督相続ですので順当で、だれも異議を出せなかったでしょう。

 もちろん天下はこの三法師にならず豊臣秀吉になりました。

 

 江戸時代については別稿で改めて述べることにします。

以上

2021年5月16日

 

梅 一声