謀将 伊達政宗 |
戦国時代末期に勇名を馳せた東北の謀将伊達政宗です。もう少し早く生まれていたら天下人になったのではないかと言う人もいます。
武将でありながら教養人でもありました。
和歌や漢詩の優れた詠み人でした。
漢詩では晩年に詠んだ次の作が有名ですね。
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平かにして白髪多し
残躯天所許 残躯天の許す所
不楽是如何 楽しまれば是を如何
老境に入って一杯飲みながら自分の波乱万丈の一生を振り返り、楽しい日々を送りたいとの心情を詠ったものでしょう。
当時も古代も東北は広いわりに陸奥国と出羽国の二国だけです。陸奥国は現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県で、出羽国は秋田県と山形県の2県です。分かりやすく語るために郡名や地名には現在の県名を付します。
そもそも伊達氏は常陸国(茨城県)の出身で、源頼朝の奥州征伐の折に戦功あって陸奥国伊達郡(福島県伊達郡)に領地をもらいました(地頭)。
16世紀に入っての戦国時代です。
伊達氏は14代植宗(政宗の祖祖父)の代です。鎌倉時代、室町時代を経て領地は福島県では本拠地の伊達郡、信夫郡、宮城県南部の苅田郡、柴田郡、伊具郡、名取郡そして山形県の置賜郡で東北最大勢力になっています。
宮城県の北部、岩手県南部を領する大崎氏や葛西氏、福島県の相馬氏、蘆名氏、二階堂氏、田村氏等と息子、娘を入嗣、入嫁させて提携関係を結びます。姻戚政策を進めます。
又稙宗は領内支配の強化を図ります。これが家中の反発を買い、反対派が嫡男の晴宗を担いで謀反を起こします。
家中は真二つに分かれ、親の稙宗派と子の晴宗派との闘争となります。これを伊達家の天文の乱と言っています。
乱は天文11年(1542)から天文17年(1548)に及び、親の稙宗の隠居で和議となります。
晴宗は居城を福島県伊達郡桑折西山城より山形県米沢に移します。
晴宗(政宗の祖父)は永禄3年(1565)嫡子輝宗(政宗の父)に家督を譲りますが、又輝宗と父晴宗との間で親子喧嘩をします。やがて和解します。
ここで政宗の登場です。
父輝宗が天正12年(1584)、41歳で嫡子政宗に家督を譲ってしまいます。政宗18歳の時です。
当時の年齢からいっても41歳の隠居は早すぎますし、18歳の当主も若いです。政宗も辞退したようですが、輝宗は押し切りました。
2代続いての親子喧嘩を打ち切るために自分の早期引退を決めたとの言い伝えがあります。
誕生は永禄10年(1567)、父は上記輝宗、母は山形城主の最上義盛の娘で義姫。
政宗は幼名梵天丸、元服して藤次郎政宗を名乗ります。
妻は福島県田村郡を領する三春城主田村氏の娘です。
誕生の永禄10年は、織田信長は美濃国を攻略し、翌年には義昭将軍と入京で信長時代の幕が開きそうな頃です。
政宗が家督を継いだ天正12年(1584)には、2年前に織田信長は明智光秀に謀殺され、その後豊臣秀吉が天下人への道を進んでいた時期で、徳川家康との小牧長久手の合戦をしていた頃です。
秀吉はその後、紀伊国を攻略、家康と和睦し家臣とし、四国、九州を平定します。
関東の雄北条氏も不完全ですが一応服属します。
当主となった翌年から政宗は領地、支配地拡大に向かって猛進します。
天正13年(1586)から自領の伊達郡、信夫郡以外の福島県の侵攻を始めます。南北連合と東西連合の対戦と言われています。
東西連合軍は蘆名氏(会津)、二階堂氏(岩瀬郡)、白河氏(白河郡)、それに常陸の佐竹氏。
一方南北連合軍は伊達と田村氏(田村郡)です。
戦いが始まった頃、福島県安達郡の二本松城主畠山善継の裏切りで、父輝宗が拉致されます。政宗は父が拉致されたまま義継を攻め殺し、父親は義継に殺されます。
その後両軍の攻勢は膠着状態になります。
更に政宗は宮城県の北部と岩手県南部支配の大崎氏攻めを行います。天正16年(1589)に大崎氏が政宗に服属します。大崎氏は室町幕府管領斯波氏の一族で長く陸奥国の一大勢力でした。
戻って福島県の攻防です。天正17年(1590)に福島県の一大勢力の会津の蘆名氏と大決戦となります。摺上原の戦いと呼ばれ、磐梯山の麓で伊達方2,3万人、蘆名方1,6万の兵力で戦い伊達が完勝したのです。
蘆名氏は滅び、東西連合は解体し、福島県の有力領主は政宗に服属します。
これで伊達氏は、福島県の東側太平洋沿岸地区(相馬氏)を除く福島県、宮城県の大部分と山形県南部の領地で東北66郡の内30余郡そして岩手県の南部(葛西、大崎氏領地)の支配となりました。
外に栃木県や新潟県の一部も領有することになりました。
政宗24歳、当主になって5年余りのことです。
奥羽(東北)には北に岩手県北部の南部氏、青森県の津軽氏、秋田県の秋田氏が残っているだけです。もう奥羽の覇者と言えるでしょう。
さてそのころ秀吉は天下を制したと思っていました。
秀吉は東北地方の領主たちに戦いを止めて、秀吉に服従を言明していました。
東北地方も蘆名氏、南部氏等は秀吉に服従を申し出ました。政宗と大崎氏は態度を明らかにしていません。
政宗は領地拡大に躍進中であり、秀吉の戦いの中止の命には従いたくありません。
その情勢の中で、北条氏が秀吉に反旗を翻したのです。秀吉は北条氏討伐を決めます。
秀吉は伊達政宗にも参陣を求めます。天正18年(1590)1月のことです。政宗は返事をしないままです。
北条氏からも味方の催促があります。両者戦いの様子で有利な方に付こうと考えていたのでしょう。
その時、政宗暗殺未遂事件がおきます。首謀者は政宗の母の保春院です。正宗の毒殺を図ります。失敗に終わります。実家の最上氏と策謀して政宗の弟の小次郎を当主にしようとしたのです。
母親は山形の最上氏に逃げました。弟の小次郎は処刑されます。同年4月のことです。
秀吉の小田原攻めは激しく4月下旬には北条氏の伊豆の諸城が陥落し、秀吉軍に小田原本城が囲まれました。
政宗は毒殺未遂事件があったとは言え決断が遅すぎました。秀吉勝利は明らかです。今から軍勢を率いて参陣しても秀吉に許してもらえません。
政宗は意を決して100騎ほど従えて謝罪のため小田原の秀吉の下に参じました。小田原城陥落の1か月前でした。
秀吉の前で平謝りでなんとか許してもらえました。
小田原城は7月に陥落し、北条氏は滅亡しました。
秀吉の奥州仕置きです。(統治)
政宗への処分は福島県会津郡、岩瀬郡、安積郡は没収です。政宗の居城は黒川城(会津城)から山形の米沢に移します。
ところが没落した葛西、大崎氏の家来たちが一揆を起こします。秀吉の家臣で新領主の木村義清だけでは手におえず、会津の新領主蒲生氏と政宗も鎮圧に駆り出されます。
ここで政宗が一揆の首謀との訴えが政宗の家来からあります。政宗が怪しげな行動があったのでしょう。蒲生氏郷と木村義清の誤解は一応晴れました。
しかし秀吉の意は分かりません。京に赴き死に装束で、はりつけ柱を背負って決死の覚悟で弁明して、許されました。
秀吉によって政宗の領地の配置換えがあります。
宮城県全域、岩手県南部と福島県の一郡の計20郡となりました。58万石です。本領の伊達郡初め福島県のほとんど、山形県の南部は没収です。
秀吉の小田原攻め以前は奥羽には30郡を領し大崎葛西領の12郡も支配していましたから大幅な縮小と言えましょう。
居城は米沢から岩手沢城(宮城県北部の玉造郡)に移ります。
その後正宗は京に常駐し、朝鮮出兵にもお応じ秀吉に従順に仕えていましたが、秀吉の甥の秀次事件に連座して(秀次謀反に加担のうわさ)処罰の対象となったのを徳川家康の仲介で許されました。
秀吉は慶長3年(1598)に没しますが、秀吉時代に正宗の怪しげなふるまいで上述のように三度も叱責される場面がありましたが、疑いが晴れたのか、詫びの仕方がうまかったのか、滅亡の危機を脱しました。
秀吉亡き後は徳川家康に付きます。
関ケ原の戦いでは上杉軍の南下を防ぐために、関ケ原に向かう家康は政宗に上杉氏への攻撃を依頼します。その見返りに旧領の伊達郡等の7郡(49万石)を与えるとの判物(お墨付き)をもらいます(当時、上杉氏は秀吉に越後から会津に国替えさせられていた)。
ご存知のよう関ケ原では徳川氏の完勝です。
しかし家康は政宗には苅田郡(1,3万石)だけ与えただけでした。家康は政宗の上杉氏への攻撃が甘かったとの判断でしょう。
慶長6年(1601)居城を岩出山城から仙台城を築城して移ります。
その後近江と常陸に飛び地(2万石)をもらい徳川政権下で62万石の大大名となります。
家康に信頼されていき、娘五郎八姫を家康六男忠輝に輿入れさせます。
大阪の陣でも活躍しその後庶長子の秀宗には宇和島10万石を封じられました。
家康は元和2年(1616)75歳で没しました。政宗は50歳でした。
二代秀忠、三代家光将軍とも良い関係の中で、
政宗は寛永13年(1636)5月江戸桜田邸で70歳で没しました。
政宗は隻眼でした。幼いころ疱瘡で片目がつぶれました。死に際に「もし死ねば、木像を作るだろう。それには両眼を入れよ」と
作家司馬遼太郎は「馬上少年過ぐ」で政宗と言う人を、
悲壮感に陶酔せず、自滅を美とせず、生存のために計算をし抜いた人としています。
以上
2020年10月11日
梅 一声
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