幕末の国学・神道・仏教 |
江戸時代の仏教です。仏教は神道の上位にある徳川幕府公認の宗教で、 幕府の統治機構の一翼を担います。キリスト教を禁教にするためにすべての国 民をどこかの寺の檀家(宗徒)にしました。これによりキリスト教廃絶の効果 はありましたし、寺は村役場の戸籍(住民登録)の係の役割を幕府や藩に代わ って行うことになり(宗門改め)、寺は武家政権の治世(行政)の一機関となり ました。 寺社奉行を置いてしっかり寺を管理すると共に幕府も藩も寺の維持に領地も資金も出しました。 武家政権の一機関となったため、どの宗派も布教に力は入れませんし、僧侶 は勉強しなくなります。 江戸時代に仏教史上に残る高僧と言われる人は、江戸時代初期に宋から来日 して禅宗の黄檗宗(黄檗宗)を広めた隠元和尚ぐらいでしょうか。家康に仕え た天海和尚(天台宗)や崇伝和尚(臨済宗)は官吏としての有能さを見出され たのです。 いずれも江戸時代初期の人で、その後仏教そのものを深く追求して新説や新 しい解釈を広めた僧侶はほとんどいません。 江戸時代の仏教は政権に過保護にされた故に、教えの停滞期に入ったと考え て良いでしょう。 一方江戸時代の国学―神道です。 布教に苦労しなくなり、仏教学が低迷する中で江戸時代中ごろ国学が起こり ます。和学とも言います。この国学の流れが江戸時代後期の神道に大きく影響を及ぼし、尊皇攘夷思想に発展します。 もともと和歌や古事記の研究です。契沖(1640〜1702年)が国学の 先駆者です。その後に荷田春満(1669〜1736年)、その弟子の賀茂真淵 (1697〜1769年)が出、万葉集や源氏物語の研究が深まりました。 本居宣長(1730〜1801年)によって更に国学の研究は進みましたが、 宣長は古道、神ながら道と称し神道にもふれるようになりました。 この神道部門を拡大解釈して国学の中心は古事記による神道であるとし、 国粋主義の弟子を養成したのが平田篤胤(1776〜1843年)です。 幕末に地方の下級武士や庄屋層に尊王攘夷思想を普及させたのは篤胤とその 弟子たちです。 水戸にも国学が起こります。江戸初期から中期は「大日本史」の編集で 古事記、日本書紀の研究が盛んになり、後期は尊王と神道に傾斜し、幕末の 尊王攘夷思想の発端となります。水戸学と言います。 水戸の国学(水戸学)の特徴は儒学を取り入れていることです。一方 上記本居宣長、平田篤胤の流れの国学は儒学を排撃しているところが違います。 後期水戸学の学者では藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎が有名です。 攘夷、海禁(鎖国)を主張(1825年―新論)した会沢正志斎はその後 開国説に変りました(1862年 時務策)。鎖国しての海防は無理と気づいたのです。これにより幕末水戸藩内は思想上大変混乱しました。 幕末において幕府、尊王攘夷派、討幕派が神道・仏教からどのように影響さ れ、逆にどのように利用したかです。 先ず幕府です。寺を幕府の組織の一部にして、キリスト教を禁教にして国民 を全てどこかの寺に所属させました。キリスト教に対抗するためには現世と あの世についての確かな教え(宗教理念)を持っている仏教が必要だったので す。教えのない神道ではキリスト教に対抗するには弱いのです。 しかしその後の幕府の寺への過保護と寺が行政機関の一部を担うことで、僧侶自身が仏教発展への進化を怠ました。 仏教は幕末の政治的、思想的な混乱の時流の外にあったと言えるでしょう。 一方神道は、国学、儒教の専門家が神道論を創造、進化させました。 儒教は特に日本流の朱子学が幕府の正教となり、武士の子弟の教養の必須の科目となり、発展しますし、その他の陽明学や古義学の学派も競い合います。 儒教は孔子が庶民ではなく為政者の道徳を唱えたものですが、宋時代に朱子が更に父子・君臣・夫婦・長幼、朋友関係(五輪)を強調したのが朱子学です。 幕末の水戸学は、国学(神道を含む)、儒教を混合させて幕藩体制維持の理論 を作ります。それが尊王攘夷論です。尊王と言っても天皇、将軍、大名の制度 は動かしません。攘夷派は海禁(鎖国)のままでの海防を主張しました。この 理論は全国の多くの武士や公家に支持され、彼らの活動の根本思想になりまし た。しかし尊王攘夷論を作った水戸学の会沢正志斎が海禁より開国に転じた ことで水戸学は混乱状態になりました。 平田篤胤の神道は尊王攘夷から極端な国粋主義に向かい、幕末から明治にか けて勢力の拡大につながりませんでした。 幕末の開国への勢力は、蘭学や洋学、英学を修め、西洋の科学技術を導入し なければ日本の防衛、発展はないと主張した人々です。 幕府も開国に舵をきります。主要な多くの大名も開国の必要を認識していき ます。そして攘夷の理論の推奨者の水戸学派も開国に傾いて行きます。 しかし地方の多くの尊皇攘夷の浪士は鎖国の主張を変えません。攘夷派の浪士による開国派への襲撃が起こります。 開国を主張する者の中には天皇、将軍、大名の制度を維持しようとする勢力 (徳川幕府)と徳川幕府解体して天皇の下に政府(王政復古派)を作ろうとする勢力がありました。 結局討幕派(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)等)によって徳川幕府は滅亡します。 このように幕末に尊王攘夷論を打ち立てたのは国学派―神道派です。尊王攘夷説は尊王開国、尊王討幕となって行きますが、考え方の根本は国学―神道理論にありました。 仏教は幕府の治世の安定化に貢献しましたが、幕末の混乱の時勢の中で幕府も朝廷としても利用価値が低くなり、仏教側からも時勢への働きかけなく、仏教勢力が減退します。 明治の維新政府は神仏分離令を出します。これは古代から続いて来た仏教上位の神仏習合の政策を逆転させて神道上位、仏教の下位を政策とするものでした。仏教教団の最高位にありました天皇家は仏教信仰を捨てられました。 明治政府は国家神道により天皇統治を正当化し、そして儒教(朱子学)を国民の道徳教育に採用しました。 国家神道は宗教ではなく国の成り立ちの絶対的根本思想です。仏教はキリスト教、天理教等と同じ位置に処せられました。 以上 2017年1月15日 梅 一声
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