幕府の幕引き役の勝海舟

 


勝海舟と言えば、江戸城無血開城、徳川幕府の幕引き役をなした人として知られています。

海舟と通常呼ばれますが、通称は(りん)太郎(たろう)(いみな)義邦(よしくに)、官職は安房(あわ)(かみ)で幕末は勝安房守義邦と名のりました。明治での戸籍名は勝安芳(やすよし)です。

 

 海舟を幕末維新の英傑・スターに押し上げた江戸城無血開城と言われる討幕軍との講和交渉とは何かについて語りましょう。

 鳥羽伏見の戦いで薩摩・長州・土佐の討幕軍に負けた徳川慶喜将軍は江戸に逃げ帰ります。

 慶喜は恭順の意を表し全面降伏を決めます。

 討幕軍との講和交渉を慶喜は海舟に委ねることにします。

 西郷隆盛を参謀(最高司令官)とすると東征軍が江戸に向かって来ました。

 江戸の三田の薩摩屋敷で海舟と西郷との間で2日間講和交渉が行われます。

 西郷隆盛から「慶喜の政権返上と領地没収、お家断絶、慶喜切腹」の要求です。

 海舟よりは、「幕府は抗戦せず、江戸城を引き渡し、政権を朝廷に返上する。ただし、慶喜の助命と将軍家家臣の生活のため一定の知行地の要求です。」

 海舟は西郷が慶喜助命を聞かぬ場合は江戸を火の海にして討幕軍へ徹底抗戦を秘めての要求です。

 西郷は海舟の覚悟の要求をのむことにします。

 これが江戸城無血開城です。

 

それでは海舟とはどんな人だったのかを語ります。

 海舟の勝家は旗本小普請組で41石です。旗本でも最低でしょう。父親は旗本()(たに)家からの養子です。勝家は貧乏ですが、実家の男谷家は裕福で剣客で有名な男谷精一郎がいます。

 海舟も経済的に何かと世話になっていたでしょう。精一郎とは従弟になり、剣術の手ほどきも受けました。精一郎の高弟島田虎之助道場で修業し、最高位の免許皆伝を得ます。

 海舟は蘭学、そしてこれからは蘭学でなく英学だと英語も学びます。

 西洋学の大家佐久間象山の塾に入ります。海舟28歳の時です。

 ここで西洋流の海戦術、砲術を学びます。

 刻苦勉励の時代です。

 

さてここでアメリカ艦隊の浦賀来航です(嘉永6年―1853)(明治維新は15年後の1868年です)。

 翌年日本は日米和親条約を結びます。

 幕末の尊王攘夷騒動の開幕です。

 海舟の西洋学(語学、砲術、西洋戦術)の高さについては旗本・目付・海防掛の大久保一翁(忠寛)の目のとまるところとなります。

 大久保は海舟に建白書「海防意見書」を出させ、これが老中阿部の目にとまります。

この後海舟と大久保一翁は主義、主張を同じにし、協同します。

 

 海舟は初めてお役につきます。長崎海軍伝習所入所を命じられます。

 総監理(所長)は永井(なお)(ゆき)(後に軍艦奉行、外国奉行、若年寄、幕府の海軍創立者の一人)

 海舟は生徒であり生徒の総督(監理者)でもありました。

 海舟は4年間操船術を学びます。

 

 政治情勢が変わります。

 幕府の統治力(老中権限)が衰えてきます。

 かの有名な井伊(なお)(すけ)大老の登場です(安政5年)。

 老中権限が復活します。日米通商条約を締結します。

 13代将軍家定後継候補では、紀州徳川の(いえ)(もち)推す井伊大老と水戸徳川の慶喜(よしのぶ)を推す有力大名、幕臣とが対立し、井伊大老は反対派を隠居、粛清します。

 安政の大獄と言っています。

 14代将軍は家茂に決定します。

 井伊大老は条約批准書交換のため遣米使節団派遣を決めます。

 使節団は外交奉行新見正興等で万延元年(1860)1月にアメリカ艦船で出航します。

 そして予備艦として(かん)臨丸(りんまる)を日本人が操船してアメリカに向かうことにします。

 トップは軍艦奉行(提督)の木村(よし)(たけ)(幕府海軍創設者の一人)で海舟はその下で頭取(艦長)です。サンフランシスコには2月に着き、品川には5月に戻ります。

そして海舟がアメリカに行っている間の3カ月の間に井伊直弼大老は水戸の浪士たちに襲われ斬殺されます(桜田門外の変―万延元年3月)

海舟は帰国後軍艦操練所頭取、軍艦奉行並を務めます。

政情は14代家茂の後見人一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)(水戸徳川家、後に15代将軍)が幕府を仕切っており、幕府は攘夷派の長州と公家と対立しています。

 しかし公武合体説が主流になってきます。

 

 海舟は神戸に海軍操練所開設の必要を家茂将軍に直訴し、幕閣は不承不承認めます。

 ここで京での政情です。

文久3年(1863)に宮中から長州一掃、元治元年(1864)の池田屋事件(長州志士が新選組に襲われる)、禁門の変(長州が宮中の幕府軍・薩摩軍を攻撃しますが敗北)、そして幕府の長州征伐と続きます。

この第1次長州征伐は幕府軍と薩摩軍が勝利します(10月)

神戸海運操練所や海舟の神戸の海運私塾に池田屋事件や禁門の変に関わった長州志士が在籍しているとして幕閣は施設の閉鎖を指令します。

 

 海舟は軍艦奉行になっていましたが、すべての役職を解かれます。

 ついで第2次長州征伐がなされます(慶応2年―1866)。

 今度は薩摩が反対の意向です。これでは征伐を続行が出来ません。

 慶喜は海舟を復帰させて薩摩説得を考えます。

 海舟は軍艦奉行に再任されます。

 慶応2年(1866)7月14代将軍家茂は亡くなります。

 慶喜は後継としてこれまで通り幕府を仕切ります(12月に将軍就任)。

 海舟と西郷隆盛とは一回の会談で幕府協力で合意します。

 しかし長州征討はうまくいきません。

 慶喜は海舟に長州との講和交渉に当たらせます。合意に達しました。

 

 この頃犬猿の仲の薩摩と長州は坂本龍馬の斡旋で同盟へと動き出していました。

 海舟は幕府を支える賢侯と言われた松平春嶽(越前福井藩主)や山内容堂(土佐藩主)と親しい間で、一方幕末志士と言われる薩摩や長州の志士とも知己にあり、又その間で重要な役割を担う坂本龍馬とは師弟の関係です。

 

 時勢は動きます。

徳川政権より大政奉還が平和的に進めるべく慶喜以下幕閣は考えていました。

朝廷で公家(三条(さね)(とみ)、岩倉(とも)()等)、幕府(松平(しゅん)(がく)・山内容堂等)、有力大名の藩士(大久保利通等)関係者で会議が行われました(小御所会議)。

慶喜の出席は認められませんでした。

大久保より徳川将軍家の領地返還の提案があり、幕府側はびっくりし、他のどの大名も封地そのままで何故将軍家だけ返還かと意義を出しましたが、

強引に裁可されてしまいました。

しかしすでに薩長同盟は内々で武力討幕が決定されており、幕府軍の立ち上がりを誘導したのです。

 慶喜は誘導に乗ってしまいました。これが鳥羽伏見の戦いです。幕府軍の敗戦です。

海舟は軍艦奉行でした。海軍で海軍奉行、海軍奉行並みに続く序列3位です。慶喜は江戸にもどり海舟をすぐに海軍奉行並、更に陸軍総裁そして幕府の軍事を全て統括する軍事取扱(若年寄格=準大名)とし、討幕軍参謀(実質司令官)の西郷隆盛との敗戦講和交渉に当たらせます。

 

 何故交渉委員長が海舟なのでしょうか。

 それは海舟が討幕軍の薩摩、長州、土佐の志士たちの多くと知り合っている間であることを慶喜は知っていました。懇意と言って良いかもしれません。

 これまで慶喜はこれを利用することもあり(長州や薩摩への交渉役に使

う)、一方警戒して海舟を遠ざけることもしました。

 しかし今度は海舟を交渉委員長として使わざるを得ません。地位も討幕軍の

総大将の西郷隆盛と対等の陸軍総裁その上の軍事取扱にしました。

 海舟は西郷とは元治元年(1864)に会っています。それ以前にも島津斉

彬存命中の長崎海軍伝習所勤務時代に会っているのではないかと思われます。

 

 海舟の考え方です。

 日本国家をめざす。

 幕府政治では無理。幕府否定。老中政治否定

 この考えは海舟は初めから持っていました。

 大政奉還で徳川政権(慶喜)は退く。

これに対し慶喜将軍は、大政奉還後も幕府主導で政権は慶喜との考えでし

た。

 海舟の考え方を感づいていた慶喜は海舟をこれまで薩長や土佐との交渉の舞

台では利用し、又表舞台では遠ざけることもしました。

このような背景の中で海舟は西郷との談判に慶喜によって起用されたので

す。

 最後の幕府の幕引き役、敗戦処理の役です。

 

 明治に入って海舟は「徳川家に対しお家の大悪人の仕事をした」と言ってい

ますが、切腹が決まっていた慶喜の命を救い、その後慶喜は公爵に叙爵されま

す。

 

 嫡子小鹿を亡くした後、明治32年(1899)1月19日亡くなりま

す。享年77歳。

 幕府内よりも討幕の薩長の有力志士たちに尊敬され、徳川幕府の幕引き役を

なした海舟の話でした。

以上

 2023年10月14日

梅 一声