愛宕(あたご)(ひゃく)(いん)連歌(れんが)より明智光秀の謀反を考えます


 明智光秀が主君織田信長に謀反を起こし殺害し、その後豊臣秀吉に討伐されたたことはだれでも知る歴史的な事実です。

 ところが光秀は謀反実行日の天正10年(1582年)6月2日の3日前の5月28日に開催された連歌会(れんがえ)、光秀が謀反を臭わせる句を詠んでいたと言う説が古今言われてきました。これに反論もあります。今回はこれを考えます。

 本題に入る前に連歌(れんが)についてです。

 和歌は五・七・五・七・七音ですね。この和歌を長句(五・七・五)と次の短句(七・七)、さらに長句(五,七、五)、短句(七、七)と次々に数人で代わる代わる詠みあげて皆で一遍の詩を作っていきます。

 数人で集まって行いますので()、「連歌会(れんがえ)」と称しています。鎌倉時代から盛んになり、戦国時代もインテリの間で盛んでした。

 会によって何人で何句つくるかまちまちです。まあインテリのお遊びですが、一応神仏への祈願(戦勝、病気平癒、安産など)を目的にしていました。

 さて愛宕(あたご)連歌会(れんがえ)です。

 明智光秀は、織田信長の命により毛利討伐の織田信長軍の先発軍として備中への出発が決まっていました。

 光秀は、出発前に戦勝祈願と称して、愛宕山(京都の西)白雲寺西之坊で、住職の行裕を亭主とし、自分を主賓、宗匠(指導役の連歌師)を(しょう)()とし、そして計9名で連歌会を開催しました。合計百句(和歌の数では五十句)を皆で代わる代わる詠って作り上げました。

 5月28日開催で、これをその後明智光秀の愛宕百(あたごひゃく)(いん)連歌会(れんがえ)と称しています。

 この時読まれた光秀の発句(ほっく)連歌会で主客が最初に詠む五・七・五)謀反を臭わす内容であるというのです。

 「ときは今あめか(した)()る五月かな」と光秀は詠んだというのです。これから後七・七、五・七・五、七・七・・・・・・・と計百句続きますが、ここでは割愛します。

  表の意味は“時は今雨がふっている五月です”と取るとしても、裏の意味は“土岐(とき)今天下(天)を統治(下知る)する五月かな“と取れます。

 明智光秀は土岐氏の出身と言われています。又「下知る」は当時は、統治する意味で使われていました。ですから明智が天下を取る、すなわち織田信長を討つ意味がうかがえると。

 この句は天正記(秀吉事記)の内の一章である(これ)(とう)謀反に記述されています(惟任は光秀の官職名)。この物語は豊臣秀吉の伝記作者の大村(ゆう)()この句を記載の後に「誠に謀反の兆候をあらわしている。メンバーは誰も気づかなかったのか(現在語訳)」とコメント記しています。

 

 そしてこの句は太田牛一(信長の家来)作の織田信長伝記「信長公記」(建勲神社本)にも同じ文言で記載されていますし、現在岩瀬文庫(所蔵史料)や静嘉堂文庫(所蔵史料)にもこの発句は残っています。

 しかしこの光秀の句は、文言が一部違う句が発見されています。(下線部分)

 「ときは今あめか下なる五月かな」

  「信長公記」の池田家本、京大本、続群書類従等の記載ではこうなっています(注:本によって“とき”が“時”、“かな”が“哉”になっている表記の相違はあります)。

 要するに{(した)()る}{下なる}二通りあるのです。

()」か「な」の違いです。これが問題なのです。

 もし{下知る}が正しいならば、上記のように“土岐氏(明智)が天下を統治する”すなわち光秀が信長を討って天下を取ると解せます(知るは統治するの意)。大村由己が指摘するように出席者は誰も気づかなかったのかの疑問が残ります。{あめか下知る}は“雨がふる”の意味はありません。

逆に{下なる}では統治するとの意味はありません。“雨がふる”との意味だけです。

 連歌会は、書記役(執筆(しゅひつ))がいまして懐紙(かいし)に連歌を記録します。この懐紙が今日まで見つかりません。故にどちらが正しいのか判定が難しいのです。

 江戸時代から近年まで{下知る}説が通説で、光秀はこの句で野望を臭わせたとしていました。

 しかし今日では、{下なる}説が有力になりつつあります。理由としては、

@   冷静、慎重な光秀が謀反を起こすことを臭わすような句を実行の三日前に詠むはずがない。8名もの人が聞いている中で。

A   {下知る}(統治する)と記載した「(これ)(とう)謀反記」は秀吉が大村由己に書かせたもので、光秀の信長への謀反、天下取りの野望を証明するために、懐紙(連歌の記録書)を改ざんさせたものである。

B   太田牛一(信長の家来)作の「信長公記」は本人の直筆の池田家本(岡山の池田家に伝わる)と建勲神社本(京都の建勲神社に伝わる)があり、両本ともほぼ同じ内容の信長の伝記ですが、若干異なる記述もある。この部分も池田家本では{下なる}、建勲神社本では{下知る}と異なっている。

ところが池田家本の{下なる}の部分は、{下知る}を{下なる}に修正していることが読み取れる。よって太田牛一の最終原稿は{下なる}であった。すなわちただの“雨がふる”の意味で、光秀は謀反を臭わせていない

 

 両説の真否についてこの外に、常山紀談(湯浅常山作)では、{秀吉が光秀を討伐した後、連歌会で宗匠(連歌指導役)を勤めた(しょう)()呼び寄せ、光秀の「時は今あめか下知る五月かな」を聞いて、謀反を思わなかったのか〉と詰問した。

 それに対し、紹巴は秀吉にこのように答えたと〈懐紙をよくご覧ください。

「下知る」の“知”の部分の元の字を削って“知”となっています。ここは元は“な”でありましたものを誰かが修正したのです。ですから光秀が詠んだのは「時は今あめか下なる五月かな」でありました(ただ雨がふるの意味)〉と弁解した。しかしながら実はこれは紹巴が元の“知”を削って又“知”を書いたのである》と記しています。

  現在のある研究者は、連歌会の当日、光秀は謀反決行を未だ決めていなかったので「下知る」はないと。

又ある研究者は、「あめか下知る」で良いのだ。光秀の句の「下知る」(統治する)の人は信長の意味又は天皇の意味で詠んだのだと。

 頭脳明晰と言われた明智光秀は本当はどう読んだのでしょうか。

 以上

2016年11月29日

 梅 一声