足軽のいない徳川将軍家の家来



徳川将軍家(徳川幕府)は江戸に幕府を開き、家来の制度を戦国時代の戦時体制より平時を中心にしての制度に変えました。

 

家来を大名、旗本、御家人の三つの身分に整理し、それぞれが幕府のどの役職に就けるかを制定しました。

大名は領地(知)1万石以上の第一の身分、旗本は第二の身分で1万石未満で将軍に御目見えできる身分(御目見以上)、そして第三の身分としての御家人(ごけにん)ですが、将軍に御目見見えできない身分となります(御目見以下)。ほとんどの御家人は領地(知)を持たず、俸禄と言って給与を俵(玄米)又は現金で受け取ります。御家人は大名、旗本以下の一般の家来と思っていただいて良いと思います。

三つの身分の中は更に分かれますが、分かりやすい一つは石高の差、俸禄の差となりますが、それだけでは律しきれなく、大名や旗本は官位(従五位とか従四位とか)、江戸城の控えの間でのランクで身分を律しました。

御家人については後述します。

 

さて足軽ですが、戦国時代には歩兵戦が主戦法で、多くの歩兵である足軽が戦国大名家や武士に雇われました。

足軽の起こりは室町時代、騎馬戦から歩兵戦に戦い方が変わったことから多くの歩兵が雇われ、この歩兵を足軽と呼びました。

馬に乗らず、重い鎧・兜を身に着けず、軽い具足で軽々と走りまわったことから名づけられたのでしょう。

足軽は元々領国の農民を戦時だけ雇うことから始まって、常雇いになり、槍組、弓組、鉄砲組に配属して訓練して、戦場に行かせ、武士(騎馬武者)の下で戦わせました。

足軽は戦国時代は武士ではありません。兵卒です。武士は騎馬に乗って戦場に赴き、騎馬に乗って指揮をとります。そして自分の領地を持っている人です。

 

戦国時代この歩兵の足軽のことを同心とも言いました。

同心は戦闘で同心合力する意味ですが、実際は歩兵(足軽)として足軽大将の下で働きます。

江戸時代、徳川将軍家(幕府)では足軽と言わずに同心と呼びました。徳川将軍家以外の大名家では江戸時代も足軽の呼称です。

 

それではこの同心(足軽)は幕府での地位、仕事についてお話します。

同心は御家人身分の中にはいります。御家人の中には同心のほかに与力、

御徒(おかち)御中間(おちゅうげん)御駕籠之者(おかごかきのもの)、御坊主、御掃除之者等々の役職があり、役職に就けない御家人は小普請組に入ります。

この内与力、同心、御徒(おかち)は上述の経緯からすると純粋の武士と言えないのですが、江戸時代では侍として処遇されていました。名字帯刀、羽織袴、裃を許されています。

江戸での一般の人々もお侍さんとして接していました。

御中間以下は明らかに武士ではありません。将軍家の雑用係です。普通刀も差しません。しかし身分的には誇り高き将軍家の御家人(家来)となります。

大名家(藩)では武士(家士)そして(かち)(さむらい)兵卒の頭格)、足軽(兵卒)そして奉公人(中間、小者等雑用係)として身分が歴然とあります。

家来の身分を大名、旗本、御家人の三つの名称で分けるのは将軍家だけです。

同心は、ほとんどの場合、与力の管下で働きます。上司は与力なのです。町奉行所の同心も与力の部下として働いていますね。

この与力も御家人です。旗本ではありません。

与力や同心は組織上、江戸町奉行等の各奉行、大番頭(将軍の側近・警護役)、京都所司代、大坂城代、御先手同心頭(いずれも身分は旗本)等の下で働きます。同心の総数は6700人位です。

このように同心は戦時は歩兵として働きますが、平時は旗本や与力の下で色々な仕事につきます。

 

それでは時代小説や映画でなじみがあります江戸町奉行の同心について語りましょう。

町方同心、町同心と言われます。町奉行配下で、与力の指揮下で、町奉行所の政務について与力を補佐します。

江戸町奉行所は北町奉行所(呉服橋)、南町奉行所(数寄屋橋)にあり、同心は各120人ずつ配置されていました。

町方同心は他の同心と同じく身分は御家人の侍格で、御抱席(おかかえせき)でありました。

御抱席の御家人は一代限りのお雇いです。ですから本来は本人死亡等で辞した時は御家人(同心)の身分を息子に譲れません。

しかし実際は申請すれば息子が同心職を継ぐことが出来ました。事実上世襲です。

尚、御家人でも譜代席の者(与力の一部等)はその身分を家督に譲る権利を有していました。実質、譜代席も御抱席も同じですが、格が譜代席の方が上になります。

しかし侍格でない雑用係の足軽、小者、駕籠かき、坊主等のほとんどは御譜代席ですので、侍格の御家人の間でのことになります。

どうも御家人の中に侍格の家来とそうでない家来を一緒に入れていますので、

ややこしいところがあります。

 大名家では侍でない雑務係は奉公人として区別しています。

 

 話をもどして町方同心です。

 俸禄は30俵2人扶持が標準です。同心も年寄より無足見習いまで11の役格あり、俸禄に幾分差がありました。

 この30俵2人扶持です。

 1人扶持は米5俵で、2人扶持で10俵となり、30俵と合わせ合計40俵取り(玄米)となります。

 1俵は3.5斗ですので玄米で14石となります。

 これを現在のお金に換算するには単純ではないのですが、1石を1両、1両を10万円としますと、年収140万円となります。

 これは他の職種につく同心も同じです。

 住居は官舎が与えられます。町方同心の場合は八丁堀に100坪の組屋敷がもらえます。

 江戸時代と今日の物価が違うとは言え、これでは同心は暮らしていけません。

 一般の同心は傘、春慶塗、植木、ちょうちん、の内職をし、敷地の一部を貸して地代を稼ぎました。

 

 しかし町方同心は豊だったのです。

 大名家や有力町人からの付け届けがありました。大名家の家来が町でトラブルを起こした時に内密に処理を、大店では無法な族からの因縁をつけられることへの対応を願ってのことです。

 これは公然と行われていましたので、今でいう賄賂の感覚ではなかったようです。音信ものとして大名には受取証書も出したのです。まあ中元、歳暮の感覚でしょうか。

 一方、町方同心は配下に岡っ引き、目明し、下っ引きを抱えなければなりません。同心はこれらの役得の収入から出しました。

 それでも役得で他の役の同心より収入が多く暮らし向きは良かったようです。

 町方同心といえばあの黒の紋付羽織で袴を着けない着流しです。刀は一本差しで十手は緋の房で背にさしていました。(与力は刀のそばにさす)

 袴を着けないのは、普通の侍の服装ではありません。「御成り先着流し御免」

として特別許されていました。服装の意味は分かりません。政務、警察の仕事をするのに一般人に慣れ親しまれるためでしょうか。

 外の職種の同心は仕事中は羽織袴又は裃を着用しなければなりません。

 御家人の侍格には与力、同心以外に(かち)という役職がありました。戦国時代に徒士(かち)(ざむらい)と言われ、足軽の上位で武士の下位でした。

 徳川将軍家でも役職は残り、俸禄は与力と同心の間で、70俵5人扶持が標準でした。同心と同じく御抱席でした。

 与力、同心はほとんど昇格の機会はありませんでしたが、御徒は中には旗本まで昇格した者もありました。

 それから御家人の身分を自分の養子と言うことにして跡取りにして届け、実質身分を売ることが可能でした。与力は1000両、御徒は500両、同心は200両が相場でした。

 

 明治に入って、与力、同心(大名家では足軽)、徒が武士かそうでないのかの問題が起こりました。華族、士族、平民制度が出来た時、士族に入れるかどうかでもめました。士族ではなく卒族(兵卒)ではないかとの意見もありましたが、結局士族に入りました。

 戦国時代までは武士の定義ははっきりしていたのですが、江戸時代に武士の定義は広くなったと言えます。

 

 徳川将軍家が何故足軽の名称を使わず同心にしたか分かりません。同心は与力とは一対の上下関係が伝統で、将軍家は与力名を採用したことから足軽でなくを同心の呼称を取ったとの説があります。

以上

2017年8月16日

梅 一声