尼将軍“北条政子”


 

 北条政子は征夷大将軍源頼朝の正妻で、二代目将軍頼家と三代目将軍実朝の母親でありますが、ただそれだけではありません。

この人は頼朝亡き後、鎌倉幕府の中で反北条勢力と戦い、打倒鎌倉幕府めざす後鳥羽上皇と戦い、これ等に打ち勝ち北条政権を築いた人物として大政治家と言えるのです。

平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と並んでも遜色がない武家の大政治家です。日本史上女性で彼女に勝る政治家いません。女帝も推古天皇以来10帝いますが、みな実権を持たない中継ぎの人にすぎません。

女性で全国政権を奪取し、掌握した人は北条政子しかいません。

 

<頼朝との出会い>

 政子は、平清盛に伊豆に流されていた源頼朝と、父親である北条時政に反対されながらも強引に結婚してしまいます(1177年)。政子21歳、頼朝31歳の時です。時政は清盛からの指示で頼朝の監視人でした。その後政子は時政を口説いて、平家を裏切らせ、頼朝の源家再興の支援者とします。頼朝が反平家で立ち上がった時の最大の協力者にしました。

 頼朝はやがて平家を倒し、更に奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を打ち立てます

(1192年)。政子の男を見る目の確かさが窺えます。

 頼朝存命中の政子は、恐妻家として有名ですが、政治家としては大きな役割はありませんでした。

 

<二代将軍頼家の時>

ところが頼朝が落馬事故(1199年)で亡くなって、尼御台所と言われるようになってから政治家政子の活躍は目が見張るものがあるのです。

頼朝の跡は、頼朝と政子の間の長男頼家が跡を継ぎ二代目将軍となります。これは頼朝が決めていたことです。ところがこの頼家は自分の乳母の里方の比企氏を側近にして、政子や北条時政(政子の父)を疎んじます。比企氏の勢力が北条氏を上回る恐れが出てきました。政子と時政は比企氏を武力で討滅すると共に、政子の子である頼家とその子の一幡も殺します。

そして二男の実朝を三代将軍にすえます。 

<三代将軍実朝の時>

政子と時政は反北条で頼朝以来の幕府の重鎮畠山重忠を討ちます。そして幕府内で確固たる勢力を築きます。

ところが時政は勢いが付き過ぎたのか時政と後妻(政子は先妻の子)の間に出来た娘の婿の平賀朝雅を実朝に代えて将軍にしようと画策します。

これには政子と弟の義時が政子に協力して反対し、時政を追いつめて伊豆に蟄居させ政治力を奪ってしまいます。頼朝の最大の協力者は政子に隠退させられます。

 これで北条氏権力は政子が一手に実権を掌握し、弟の義時が協力者として執権の地位になります。

 実の子を殺し、父を隠居させ政子は権力を得たのです。その後反北条で幕府の重鎮和田義盛をも討ちます。

 実朝は長じるに及んで、政敵を殺害する政子の武断政治を嫌い、穏便な文治政治を目指そうとします。実朝は和歌をたしなむ文人でもありました。又独自の計画を打ち出し、大型の舟を建造して宋に渡ろうとします。しかしこれは船が浮かばず挫折します。

 政子との関係は徐々に良くなくなります。

 政子は実朝(27歳)に子が出来ないことを理由に、上洛して後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎える工作をしますが、うまく行きませんでした。

 しかしこの上洛の時に従三位、従二位と昇進しました。従二位は頼朝と同じ位階です。政子の実権の大きさが分かります。

 それでは何故政子は実朝の後の将軍を京都から皇子を迎えようとしたのでしょうか。実朝に子がないとしても頼朝系では死んだ長男の子に公暁(くぎょう)と禅暁がいます。又他の源氏系から選ぶとなると足利氏や武田氏がいます。

 政子は源氏系から将軍を擁立する気がないのです。源氏系の将軍は実権ある政権を求めます。将軍は権威ある天皇の皇子とし、北条氏の傀儡政権として実態は北条政権を志向します。これによって朝廷からの反幕府の行動をも抑えられます。

 ここで実朝将軍(政子・頼朝の二男)が頼家(政子・頼朝の長男)の子である公暁(くぎょう)に暗殺される事件が起きます(1219年)。事件後直ぐに公暁は幕府重鎮の三浦義村を頼ってその邸に逃げ込みますが、そこで義村に討たれます。

 公暁は普通なら前将軍の子として実朝の後継候補であるはずです。単独犯とは思えません。だれが暗殺をそそのかしたのか、黒幕はだれかです。

 三浦義村が「実朝を殺せばあなたを将軍にする」と約束したのではないかそして実行後反古にしたのではないか。その時、実朝は鶴岡八幡宮寺に参詣中でした。ずっと脇には北条義時(政子の弟)が随身していたのですが、暗殺の直前にお腹痛いと言って、実朝の脇から離れていました。そこで実朝の暗殺実行を知っていたのではないか。黒幕は義時ではないかとも言われています。もし義時が黒幕なら政子が知らないわけがないのです。実朝暗殺を公暁にそそのかした本当の実行犯は三浦義村か、北条義時か、更に政子か充分勘ぐることが出来ます。その頃、実朝は政子や義時に反抗的で、自立したい行動に出ていました。

<尼将軍の時>

 実朝暗殺後、政子は将軍として摂関家の九条家から頼経(2歳)をもらいます。後鳥羽上皇は皇子を出しませんでした。政子は後見人となり更に「尼将軍」

となって政子政権を確立します。弟の義時が執権となって協力します。

 

 この体制がスタートして直ぐに、後鳥羽上皇が反北条を募って討幕の軍を起こします。政子は全御家人に対し頼朝への恩義を訴え、檄をとばして幕府を一本化に成功、後鳥羽院の軍を圧倒して完勝します。(承久の乱 1221年)そして後鳥羽上皇を隠岐に配流にします。

 

 ここに鎌倉幕府北条政権は確立されたのです。政子は四代将軍です。五代が九条家からで、その後は天皇の皇子です。北条氏は執権と政子が作った連署(執権補佐)という役職で政権を維持し将軍を傀儡化しました。教科書では三代実朝の後の四代は頼経(九条家出身)ですが鎌倉時代の記録書「吾妻鏡」では四代将軍は政子です。

 政子は嘉禄元年(1225)69歳で亡くなりました。息子二人、娘二人みんな死んでいました。

 

<おわりに>

 政権の樹立と掌握のために政子の荒業を整理しますと、長男頼家を殺害(二男実朝殺害も関与か)、頼家の子二人を殺害(頼朝系の子孫は全滅)、天皇を配流の刑に処し、父親を蟄居させます。もちろん幕府内の反北条の勢力を殺害・討滅します(畠山氏、比企氏、和田氏)

 政権を打ち立てる為に大政治家武将で清盛(後白河上皇を謹慎処分)、頼朝(弟の義経を殺害)、尊氏(弟を殺害)、信長(弟を殺害)、秀吉(甥を殺害)、家康(息子と妻を殺害…信長の意向)の荒業の例はありますが、一人でこのような荒行をいくつもやって政権を確立した政治家はいません。

すさまじい政治家ですね

この人はもはや烈女とか烈婦とか女だけの範ちゅうで語れる人ではありません。男、女すべての歴史上の人物の中でもっとも辣腕の政治家の一人です。

 

それでは最後に“政子”の名前ですが、この名は政子が後鳥羽上皇に会う時に名前が必要になり、父親の時政の「政」をとって“政子”と名づけました。(実際には政子が遠慮して会わず)

正式には「従二位平政子」です。それまで鎌倉では頼朝存命中は御台所、亡くなって尼御台所、二位家、二品家、尼将軍など呼ばれていました。子供のころからの本当の名前は分かりません。

以上

 20141月13日

 

梅 一声