悪人松永久秀の伝奇


  戦国時代で三悪人の一人と言われてきた松永弾正久秀については戦国時代が好きな人でないと直ぐにお分かりにならないかもしれません。

 おいおい思い出していただきます。

 この人は京都、畿内を一時は制覇した三好長慶(ながのり)の一番の家臣です。

 名もなき頃に長慶に従い、手柄を立てて一代で戦国大名になった立志伝中の人です。長慶より大和国一国をもらいました。

 三好家は室町幕府の三管領家の一家の阿波の細川家の重臣です。阿波の細川家が他の細川家と管領職争奪を争い、更に将軍家とも実権争奪の争いをします。

 三好家は阿波細川家の他の家臣との勢力争いを行いながら実力を蓄え、ついに主人の阿波細川家を追放して、将軍の筆頭家臣になります。この人が三好長慶です。実質将軍に代わり京、畿内の支配をします。織田信長が入京前のことです。

  

 しかし長慶没後、久秀は三好家や将軍家の実権を奪おうとして、三好家の他の重臣たちと争い結果負けて、勢力を減退させます。

 そこで、15代将軍義昭と入京した織田信長に服属し、大和一国の大名に復活させてもらいますが、その後信長に二度謀反を起こし二度目に滅亡させられました。

 

 何故久秀は戦国の三悪人の一人に数えられるかです。

 三悪人の後二人は、北条早雲と斎藤道三となっています。

 この三人に共通するのは主殺しです。北条早雲は主筋である伊豆の堀越公方足利茶々丸を殺し、伊豆地方を我が手に治めました。

 斎藤道三は主人の長井長弘を殺し、お家を乗っ取りました。

 主殺しでは織田信長を殺した明智光秀が有名ですが、どうゆう訳か三悪人の中に入りません。江戸時代の後期に光秀擁護論が出て来たせいかもしれません。

 今もNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀は悪役でなく主役です。

 

 松永久秀は三悪人の中でも筆頭格になっています。

 よく言われる逸話です。

 松永久秀と徳川家康が安土城に参上した時に、織田信長が家康に久秀を紹介しました。

 「この老人が松永弾正(久秀)でござる。人のえせぬことを三つしている。公方様(将軍)を殺したこと、主人の三好に叛いたこと、大仏殿を焼いたこと。普通は一つでもようせぬことでござるが、それを三つもやってのけた老人でござる。」

 これは江戸時代18世紀中頃に著された「常山紀談」に書かれた一文です。

 信長の発言は本当かどうか分かりません。多分うそでしょう。しかし松永弾正久秀への社会一般の印象は戦国時代から一貫して同じでしょう。

 これを久秀の三悪(所業)と言っています。

 一つ目公方様殺し、これは13代足利将軍義輝を三好三人衆(三好家の重臣たち)と共に京で謀殺した行為です。

 三好家は長慶が死に家来たちを統一する者がない中、義輝将軍の政治的な勢いが増してきます。これを恐れて殺してしまいました。

 二つ目は三好家に叛いたこと言っていますが、主家の主要な人物を暗殺した容疑です。

 長慶の弟の十河一存の落馬事故死(久秀のたくらみ)、長慶の嫡男(実子)義興の急死(毒殺)、長慶の弟の安宅冬康が謀反で長慶によって殺害される(久秀の讒言によるもの)、更に長慶の死も久秀の毒殺説がありました。

 これは当時からの世間のうわさで何も確証はありません。

 三つ目です。

 三好長慶が病死し、養子は幼く、後の主導権争いから三好三人衆(三好長逸(ながゆき)、三好正康、(いわ)(なり)友通(ともみち)久秀は争います。この時三人衆の連合軍が東大寺の大仏殿に籠り応戦します。久秀軍は火矢で大仏殿を襲い大仏殿を焼亡させたのです。

 

 これらによって久秀は戦国三悪人の筆頭にあげられました・

 この久秀の人物像を追って見ましょう。

 亡くなったのは天正5年(1577)は確かで享年68歳となっていますので、生まれは逆算して永正7年(1510)となります。

 出身は分かりません。京都西郊の西岡、丹波(京都府)、阿波(徳島県)、摂津(大阪府)かなどと言われています。

 お父さんの名前も分かりません。お母さんは扶養していました。弟がいます。長頼と言い、武勇に優れていましたが戦死します。

 息子は一人で久通がいます。久秀が信長によって滅亡させられた時に自刃したと言われています。

 

 久秀の出世譚は三好長慶によって見いだされる所から始まるのですが、それ以前は全く分かりません。長慶の家来になったのは天文10年(1541)、

31歳位の時かと言われていますがはっきりしません。

 最初は祐筆として採用されたのではないかと言われています。祐筆は事務官で秘書のような仕事をします。

 

 親の代が何をしていたか、本人の若いころ、半生は何をしていたか当時も現在もさっぱり分からない著名な戦国武将はこの松永久秀と明智光秀です。

 当時から本人が語らなかったのですからなかなか調査が難しいのです・

 

 久秀が三好家の家臣としてはっきり分かるのは、三好家の京都代官になったは天正18年(1549)40歳の時からです。

 史実として残っている久秀は長慶に雇われてから弟の長頼と共に戦場で数々の手柄を立てます。

 播磨国、丹波国、河内国や大和国での戦いで手柄をたて、大和国を任されるようになります。永禄2年(1559)河内国と大和国の国境に信貴山城を築き城主となり、更に奈良の北側に多門山城を築き城主となり居城とします。

 

 主人の三好長慶は1550年頃より躍進します。主家の細川家や将軍家を上回る実権を有し、京、畿内をほぼ支配した所で、跡取りの息子や兄弟があいついで死没(事故、病死、謀反)します。

本人は落胆でうつ病にかかり、勢力減退気味の中で永禄7年(1564)病没します。

 

長慶亡き後三好体制は崩壊します。

松永久秀と三好三人衆(三好の重臣連合)は義輝将軍を殺しますが、その後 対立し、久秀は三好三人衆に負けて勢力を減退させます。

混沌とした京、畿内の情勢です。

そこに織田信長が足利義昭(後の15代将軍)を連れて入京しました。

久秀は勝馬の信長に乗りました。三好三人衆は反信長で抵抗しました。三人衆は敗退し、久秀は成功し、大和の地盤を回復できました。

久秀はここまでは良かったのですが、信長を裏切ります。武田信玄が京に向かって進軍し、浅井、朝倉に反撃があり、さらに義昭将軍も彼らに組します。

信長も苦境に立ちます。この時に久秀は信長に反旗を翻します。信長滅亡と見たのでしょう。

しかし、信玄は進軍途中で病没し、浅井、朝倉氏は信長に敗れ、義昭将軍も京を追放され、信長は京、畿内を再び制圧し、天下統一へ確かな地盤を作ります。

久秀はこれを見て降伏を申し出ます。

あの厳しい信長はこれを認めます。まだ今後役にたつと思ったのでしょう。天正元年(1573)のことです。

 

ところが久秀は5年後又信長に反旗を翻します。信長はその後武田勝頼(信玄の息子)にも長篠合戦で勝利し、天下制覇へ進んでいます。

何故かこの理由がはっきりしません。

前の降伏の時に大和支配は筒井順慶と半々になってしまったことへの不満、そして上杉謙信が京に進軍するのを真に受けて立ち上がってしまったと、言われています。

今度も信長は降参を促しますが、さすがに今度は許されないと思ったのか、

降参せず、居城の信貴山城を攻められ自刃し、松永家は滅亡します。息子の長頼もこの時自刃したと言われています。

 あまりにも策を弄して自滅したお言われています。

 

 最後に久秀の教養人としての一面です。

 和歌、連歌や茶の湯の道に精通していました。

 当時茶の湯は、名物の唐物の茶器を大名や有徳人(金持ち)が所有することが大事でした。

 久秀も人がうらやむ名物を持っており、信長に最初に降伏した時に九十九(つくも)(付藻)髭茄子という茶入れ(陶器)を進上しました。

 この茶入れは本能寺で焼けましたが修理され、秀吉、家康(徳川家)に伝わり明治には岩崎弥太郎が入手し、現在静嘉堂文庫(東京、三菱系の美術館)の所蔵となっています。

外にも久秀は名物平蜘蛛の茶釜を持っていました。信長がそれをくれたら許してやると申し入れがあったが、久秀は拒絶して平蜘蛛を壊して自刃したとの逸話が残っています。  

                     以上

 2021年1月10日

梅 一声