赤穂事件は仇討ちではないとの説


 赤穂事件は元禄事件、忠臣蔵とも言います。この事件は後年「仮名手本忠臣蔵」、「忠臣蔵」、「赤穂浪士」等の名前で物語、芝居で仇討ちとして人気をはくし、現在も歌舞伎で、映画で、テレビでやればかならずあたると言われている演目です。

 今回はこの事件が実は喧嘩両成敗論にも仇討ちにも当てはまらないとの説をご紹介します。

  この事件のあらましは皆さんもうご存知のこととして、ここでは簡単に語ります。元禄14年(1701年)、浅野()匠頭(みのかみ)長矩(ながのり)が吉良上野(こうづけの)(すけ)(よし)(なか)に江戸城殿中で刃傷に及び浅野は切腹、翌年大石内蔵助を筆頭に浅野家家臣四十七士が仇と称し、吉良邸に討ち入り、吉良を殺害、四十六人が切腹となった事件です。

(一人は討ち入り後行方不明)

 

 それでは何故浅野は吉良に松の廊下で切りかかったのかです。すなわち恨みに思っていた理由です。(遺恨)

@   浅野は接待役の指導役の吉良に意地悪をされた。作法を教えてくれなか

った。その理由は、

   @浅野が吉良に差し出した賄賂が少なかったためであると。

   A浅野領地赤穂は塩田が盛んで、吉良が塩田技術を求めたが、浅野が

応じなかったので。

 A吉良は伊勢に出張していて勅使が江戸に到着する5日前に江戸に戻って

  来て、それまでに浅野が準備していた接待の手はずに大幅に変更を命じ

た。 

 B老中より、勅使接待への費用はこれまでより大幅に節減するように

と命じられており、浅野はそのようにふるまったが、吉良はこれまで通り

の出費を強いて両者にトラブルが生じた。(接待費用は浅野家の負担)

 

 外にも色々言われていますが、これ等はみな事件後に推測されたものです。

 それでは浅野は事件の時、又事件の後で刃傷に及んだ理由を何と言ったの

でしょうか。

@   刃傷の時の浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と発したと浅野を止めた

梶川与惣(よそ)兵衛(べえ)の日記に書いてあるとされていますが、はっきりしません

  

A   浅野が切腹前に、目付(役人)に切りつけた理由を聞かれて、浅野はその理由を述べなかったのです。

「私的な遺恨から刃傷に及んだ。どのような処罰を受けようと異論はない。上野介を討ち損じたのは残念である」と述べたそうです。

 

B   一方、吉良の言い分は、

「恨みをうける覚えはなく、内匠頭は乱心したと思う。恨みを買うような ことを言った覚えはない」と。

まあこれは当然の言い分でしょう。

 

C   辞世の句「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにかとせん」

この句からも理由は分かりません。

 

  このように確かな記録からは浅野の吉良への恨み(遺恨)の理由が分から

  ないのが実際です。家来たちも分からなかったのです。

 

次に綱吉将軍の裁定です。

@   綱吉将軍の申し渡し

 「吉良に意趣があるという理由で勅使を迎えている最中に、殿中であるにも

かかわらず、理不尽に吉良へ切りつけたのは重々不届き至極である。切腹

申しつける。」吉良にはお構いなし。手傷の養生をするようにと老中の言

葉でした。

その後浅野家は城地没収、お家断絶の処分となります。

 

A裁定に対する意見

 @当時から今日に至る肯定的な学者の意見

  当時、殿中で刀を抜くことは禁じられていたことは江戸城だけでなく、

  大名の殿中においても同じである。

  理由も言わずに大事な儀式の途中での刃傷は切腹に値する。

  江戸城殿中での刃傷事件はそれまで3件あり、いずれも切りかかった者は

切腹又はその場で打ち取られている。

  綱吉は15年前にも殿中での刃傷事件(若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を

殺害、稲葉はその場で打ち取られる)を経験しており、文人派将軍でもあ

って秩序を重んじる仁であったこともあれば当然の処置と思われる。

 

 A喧嘩両成敗論から綱吉や老中は片手落ちの裁定であるとの意見

喧嘩して片方が切腹で片方が無罪は片手落ち、喧嘩両成敗からおかしい。

  これはこれまで「忠臣蔵」、「赤穂義士」論の根底になっています。

  当時も現在も多くの日本人の思いです。

  

  それではそもそも喧嘩両成敗法とは何でありましょうか。

  「戦国時代の大名領国で多く採用された法令です。戦国大名の統治力

弱かった時代は、各大名は、喧嘩(私闘)は両者に勝手に解決させてい  ました。

   しかし戦国時代も後半になり、各大名は統治権を高めるため、喧嘩につ

いてもその予防と解決に乗り出しました。しかし数多い喧嘩を一々互

いの言い分を聞いて裁定は無理があり、喧嘩での殺害は殺した方は

    理由を問わず死罪に決めました。これが喧嘩両成敗法です。(但し土地

(領地)についての紛争は双方の言い分を聞いて裁定する)

    江戸時代に入り、喧嘩両成敗法はなくなりお上(おかみ)(役人)が双方の言

い分を聞いて裁定するようになります。しかし喧嘩して殺害事件が起こ

れば片方も死罪の考え方は慣習としてはあったようです。(喧嘩両成敗

論)

 

  B浅野と吉良との場合の喧嘩両成敗論。

浅野は吉良に切りかかったが、浅野は吉良に傷を負わせただけで殺害

は出来なかったのです。

   浅野が吉良を殺害しておれば、浅野の切腹は、喧嘩両成敗論も成り立

たつのですが、吉良は死ななかったのです。

浅野は喧嘩両成敗論で切腹になったのではありません。綱吉(老中)によって殿中での刃傷として切腹を命じられたのです。

 

    一応江戸時代の法令で裁定されたのであって、喧嘩両成敗の論は成り立たないと言うのです。

 

    大石内蔵助もその他の家来も喧嘩両成敗論から吉良の処罰を要求していません。

 

これが喧嘩両成敗論が成り立たないとの説の内容です。

 

次に浅野の家来の仇討ちは成り立つのか否かの論です。成り立たない派は次の

ように主張します

浅野はお(かみ)である綱吉(老中)によって殺されたのである(処罰)吉良にお

とがめなしは片手落ちであると不満があるのならお上に再吟味を要請すべきである。

しかし殿様(浅野)の吉良への恨みの理由が分からないと再吟味を要請できな

い。大石内蔵助は再吟味を要請していない。ただお家再興を要請しただけである。

古代より、仇討ちの鉄則は「身内や主人を殺した相手(又は相手の身内)を殺

すことである。」

    

「浅野の家来が吉良を狙い殺害したのは、殿様(浅野)が果たせなかった恨み

をただはらすだけの行為であって、仇討ちではない」と言う説です。

 

この説は福沢諭吉外多くの知識人が指摘しています。

筆者はこの事件を調べなおしたのですが、福沢諭吉先生に引きずらています。

しかし皆さん多くはやはり赤穂浪士の義挙は仇討ちであり、赤穂浪士は幕府の

片手落ちの裁定に対する無言の抗議であると思われ方も多いでしょうね。

 

以上

2016年12月14日

 

梅 一