赤穂事件の不思議を見ます


 

 赤穂事件(元禄事件)、赤穂浪士(義士)、忠臣蔵とよばれて、日本の仇討ち劇の最高峰に挙げられて来ました。

 戦後一時GHQ(太平洋戦争敗戦後の占領軍の総司令部)もこの劇の上演、上映を禁じました。それはそうです。この理論でアメリカに仇討ちを目論まれてはたまりません。

 ところでこの事件は日本の喧嘩、仇討ち史上にはない不思議な事実がと結末があります。これを究明したいと思います。

 

 先ずこの事件のあらましです。

 「元禄14年(1701年)314日浅野()匠頭(くみのかみ)長矩(ながのり)(播州赤穂の領主)が江戸城の松の廊下で*高家筆頭お吉良上野(こうずけの)(すけ)(よし)(なか)に刃傷におよび傷を負わせた事件が起きたのです。上野介は傷を負っただけでしたが、“将軍が勅使(天皇の使い)を迎える儀式の最中に殿中での刃傷は不届きである”として浅野内匠頭は即日切腹となり、領地(55千石)は召上げられ、お家断絶となりました。(*高家:殿中での儀式の遂行についての大名等への指導役)

 一方、吉良上野介は老中より“お構いなし、手傷を養生するように”との申しつけでした。

 浅野内匠頭はこの吉良上野介を指導役として勅使の接待役を申しつけられており、その仕事を江戸城で遂行中のことでした。

 この処分に対し、内匠頭の家来の急進派が“殿の恨みをはらすとして吉良を討つ”と主張。筆頭家老の大石内蔵助義雄は、当初“お家再興を幕府に申し入れました”がかなわず、ついに吉良を討つ組(急進派)と共に47人で翌年1215日、本所深川の吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首級(くび)をあげたのです。

46人には切腹の命(1人はその後行方知れず)。

 

 「赤穂事件は仇討ちではない。そして喧嘩両成敗論にも当てはまらない。」との説があります。

 喧嘩両成敗法(論)は喧嘩で片方がもう一方を殺害した場合、お(かみ)(殿様、領主)が殺した方も死罪に処するやり方です。喧嘩の理由は問題にしません。

 浅野と吉良の場合は、浅野に切られた吉良は手傷を負っただけで殺されませんでした。殺していれば浅野は喧嘩両成敗論では死罪(切腹)がなりたちます。

 浅野への切腹命令は殿中での刃傷によるものです。

 将軍綱吉の命令によるもので、喧嘩両成敗論にも当てはまらず、家来が吉良を討ったのは殿様の果たせなかった恨みを果たしだけの行為であって、これを仇討ちとは言えない。仇討ちは殺された身内や家来が殺した方を討つ行為であるとの説です。

 

 赤穂事件はこれまでの喧嘩、仇討ちにない不思議な事実と結末があります。

1、浅野の吉良への恨みの理由が分からないことです。

  浅野はその理由を幕府の役人に問われても語りませんでした。

 現在伝わっている理由はすべて後世の人の推測です。

 

2、浅野はなぜ吉良を殺せなかったのかです。

  眉間と背中に傷を負わしましたが、いずれも軽症です。特に眉間の傷は浅

く、大石内蔵助以下家来が吉良邸で吉良を確認する時は眉間の傷は完治して おり、吉良の確認は背中の切り傷でしたそうです。

 

  浅野は吉良に小刀で切りかかったのです。(長い刀は殿中ではさしてはいけ

 ない規則)

  小刀で相手を殺害する場合は鎧兜を着ていない場合、古今東西刺すのが通常です。刺し殺すのです。相手の体を抑えつけて首を切る方法もありますがこれは柔術が達者でなければなりません。

ただ切る行為では殺すことは難しいのです。腹を刺されれば今日でも死に至ることが多いですが、当時は外科が発達していませんのでたいがい腹を刺されればまず死にます。

刺さずにただ切りかかった浅野の行為は失態です。

 

 浅野がもし吉良を殺しておれば、浅野はやはり切腹でこの事件は終わりで

す。その後の仇討ち事件はありません。

 

武士としての失態、そして恨みの内容を明かさず、刃傷、切腹です。お家断絶です。ひどい殿様と思う家来もいたでしょう。

しかし忠臣四十七士はそんなことは露思いませんでした。

 公法を犯して切腹は仕方ないが、殿様の恨み(中味は分からない)をはらしたい。

                     

3、四十七士の吉良殺害の理由は何でしょう。

 ○浅野は恨みの理由を言っておらず、大石他家来も理由がわからない中で、

幕府が浅野の一方的な刃傷事件として処分しますが、家老の大石も切腹命

令はやむ得ないと思ったのでしょう。これには再吟味を要請しません。

 

大石内蔵助は内匠頭の弟の大学長広を立てて、お家再興を幕府に先ず要請

しました。

しかしこれは受け入れられなかったのです。

 

そこで殿の果たせなかった思いを果たすために、もともと吉良殺害を計画

していた討ち入り組(堀部安兵衛等)に同調して決行したのです、

 

大石は、法的に殿の切腹はやむを得ないが、お家断絶の処分については

減刑してほしいとの要請でした。

これを聞いてもらえなければ吉良を討つとの理論は連続しないように思

えるのです。(お家再興してもらえれば吉良を討たない)不思議なところです。

討ち入りの時の内匠頭家来口上では、綱吉将軍の裁定に不満があるとは言

っていません。

「内匠頭切腹の命はやむを得ないが、主君の仇(上野介)とは天をいただ

けないので討ち入りした」と述べています。  

 

 ○一方江戸在勤(定府)であった堀部安兵衛ほかの急進派は最初から吉良を

討つことを主張していました。

お家再興が一番でなく、殿さまが切腹で、殿の果たせなかった恨みを果た

さなければならないと考えたのです。

 

  家来はお家に仕えているのではなく、殿様個人に仕えているのだとの考え

になります。

  主従関係がドライな戦国時代も殿様(主人)の側近の家来は敗戦の時、

殿様が切り死にや切腹する時には一緒に死にます。

  これは江戸時代に入り、殿様が病死でも特に可愛がられた側近家来の殉死

がありますが、これは禁止になりました。

このように殿様と起居を共にし、お世話して可愛がられ、又直に恩義をこ

うむっている家来は知行、給与の高ではなく殿さまへの愛着が大変大きく

なるのが普通です。

 

  ですから高級取の大石内蔵助は別にして、側近の給与の低い武士が(10

人以上)や内匠頭長矩に直に雇われ恩義を感じていた人々の多くが討ち

入りに参画しています。情において殿さまの気持ちを察するに余りあった

のでしょう。

  急進派の堀部安兵衛も堀部家に養子となり、内匠頭に家来にしてもらい、

恩義を感じていました。堀部等の急進派は当初、自分たちの行動をただ恨 みをはらす行為で仇討ちと 思わなかったでしょうが、知恵をする学者がいて、後に仇討ちと称しました。

 

  殿(内匠頭)の恨みを果たし(吉良を殺し)、殿の後を追う気持ちだったの

ではないかと思われるのです。一種の殉死です。それなら吉良殺害後その場

で自らすぐに切腹すればとも思うのですが、そうではなく幕府の命によって

切腹するのです。

ここも不思議なところです。

そこで後世「彼らは綱吉将軍に義挙として褒められて許され、名誉の武士と

して他家に仕官できると考えた」との憶測をする人も現れました。

 

3、恨みを晴らした赤穂浪士への評価は如何だったのでしょう。(結末への評価)

 ○当時の世間の風評

  一般民衆は仇討ちとして、赤穂浪士を忠臣、忠義の義士としてほめそやし

ました。

  だいたい当時の江戸の庶民は赤穂浪士に吉良を討て、討てとあおったよう

で、江戸に居住していた急進派の浪士はいたたまれない気持ちがあったよ うです。

  「お(かみ)は片手落ちだとか、喧嘩両成敗から吉良も切腹だと言っていた

は庶民です。

  

 ○学者の意見

  当時の学者は、浅野内匠頭への処分は切腹、お家断絶は至当との見解が多

いのですが、赤穂浪士がとった吉良打ち取りの行為に対しては、浪士を忠

義の義士と見るか、ただの法違反者と見るかに分かれました。

  荻生徂徠(儒者、綱吉の侍医)は「吉良は敵ではないので仇討ちにならず、

天下の法に背いたので46人の処罰は当然である。」

林大学頭鳳岡(幕府お抱えの儒者)は「武士たる道の実践者であるが、

公法からは死刑である。」

室鳩巣(加賀藩から幕府の儒者)は「忠孝道徳の面から「義人」と評価」

室鳩巣の説が今日までの通説になりました。

この三説に集約されますが、明治の福沢諭吉は仇討ちにならないとの説を

取っています。

 

 ○綱吉が取った処置

  ・四十六士は切腹(47人の内1人は行方不明)

   処分は打ち首でなく、切腹の命は、浪士は法を犯したが、忠義にはかな 

   っていると判断したのかどうか。別に幕府方から説明はありません。

   (打ち首ではなく切腹は武士として名誉の作法による死刑)

 

  ・四十六士の残された息子への処置

   息子19名には遠島を申しつけられる。15歳未満の者や仏門に入って

遠島を免れ、実際に遠島になったのは4人でありました。1706年(宝永3年)には恩赦令で処分を解かれる(一人島で病死)

   ここは一類にも刑を及ぼす厳しい処置で、後に減刑です。

 

  ・吉良家の家督の左兵衛(よし)(ちか)への処置

   「討ち入りの際の不埒(ふらち)なる仕形不届きにつき、領地召上げ、諏訪安芸

守にお預け」その後義周は死亡、吉良家は断絶です。

息子の義周は討ち入りの時、戦い傷つき倒れました。何が仕形不届

きなのかその理由は明らかにされていません。

 

  幕府内部で、46人の対処について、幕府の関係の学者の意見が分かれま

した。

結局折衷案(林大学説)になりました。

公法では有罪、武道としては忠臣となりました。公法にそぐわない武道、

武道にそぐわない公法はどちらかがおかしい事になるかと思いますが、綱吉

将軍の結論は上記のようになりました。

 

いずれにしてもこのような変則の仇討ち、もしくは仇討ちと言えない仇討

ちは古今東西現在に至るまで聞きませんので、例外処分でも問題ないとも言

えます。

それから吉良家の処分(領地召上げ)が討ち入り後なされました。家督の

義周には落ち度があるとは思えません。浅野家と同じ処分が下されたと言う

ことでしょうか。それなら浅野が吉良上野介に刃傷に及んだ時に吉良が抵抗

せず逃げまわった事で武士にあるまじき振る舞いとしてお家断絶にしてお

けば後の討ち入りの事件は起きなかったかもしれませんね。

ここも不思議なところです。

 

 赤穂事件の幕府(綱吉将軍)の処置は、公法違反追及を徹底せず、法と相反する君臣間の忠義の思想を討ち入り後採用したので、矛盾したお裁きになりました。

 君臣間忠義はもともとの孔子の儒教にはありません。君臣間忠義(忠君)は儒教の一派である朱子学の教えを変形させた思想です。

 江戸時代通じて徳川幕府は朱子学が大好きでした。これを広めることで、君臣間の上下を絶対化して、家臣が主君に反抗する下剋上を否定できるからです。

 忠君は徳川政権の安定のために江戸時代の日本の朱子学者が作り上げた思想です。 

 この思想が増長して、主君が何を考えているか分からなくとも、主君に非があろうとも、主君の精神状態が異常であったとしても主君の恨みの相手は家臣の恨みとして討つとの思想が赤穂浪士の思想です。

 

 当時から今日までこの思想に人気があり、忠臣蔵は大ヒット作です。

 しかし芝居の世界では面白いのですが、現実にはその後この思想について行ける人はあまりいなかったのではないかと思いますが如何でしょうか。

以上

 

 2016年12月15日

 

梅 一声

 

参考文献

 1、赤穂浪士の実像(歴史文化ライブラリー)  谷口眞子  吉川弘文館  2006

 2、赤穂義士事典  赤穂義士事典刊行会  1972

 3、赤穂市史  赤穂市史編さん専門委員 八木哲浩 兵庫県赤穂市 1983

 4、うろんなり助右衛門 ある赤穂浪士とその末裔 冨森叡児 2002

 5、国士大辞典  吉川弘文館 

 6、戦国法成立史論  勝俣鎮夫  東京大学出版会 1973