明智光秀はどこのだれか


織田信長はほとんど日本を統一していたところで家臣の筆頭とも言える明智光秀に謀反を起こされ、京都の本能寺で謀殺されました。天正10年6月2日(1582)のことです。

 何故光秀が信長を謀殺した理由については諸説があります。ここでは深くふれませんが、守りが薄い京の本能寺の信長を、光秀が天下を取る最大のチャンスとして襲ったとの説が現在有力説となっています。

 この時期の信長の重臣の方面軍の配置は、北陸方面総大将の柴田勝家、中国方面総大将の羽柴秀吉、関東方面軍総大将の滝川一益、四国方面軍総大将の神部信孝(信長の三男)、それに畿内方面軍総大将の明智光秀でした。

 中でも光秀は京都とその周辺の丹波、丹後、大和、近江の西側を管轄し、安土に次ぐ最も重要な地域の司令官の立場でした。

 

 光秀の信長からの信頼の深さが分かります。信長は譜代の重臣だからと言って引き立てません。実力主義です。光秀も秀吉もその他の多くの家臣も外様、小者、足軽から出世し抜擢されて重要ポストにつきました。

 中でも出世頭は光秀と言えます。畿内を任されている光秀の方が羽柴秀吉や譜代筆頭の柴田勝家より信長の信任は第一と言えます。

 

 さてこの明智光秀の氏素性、出自について今回語りたいと思います。

 ところがさっぱり分かりません。かれの氏素性について詳しく書かれたものはみんな江戸時代に入ってからの軍記、物語や記録類で、まったく信用ができません。ほとんど創作の物語です。

 お父さんの名も、お母さんの名も分かりません。出身地も更に年齢も分かりません。光秀についての正確な記録が少ないのです。

 名もなき小百姓の子と言われた秀吉だって父は弥助で尾張(愛知県)の中村の出身であることは分かっています。

 しかし戦国時代には氏素性が分からない歴史上の有名人が多くいました。しかし現在の歴史学は進歩しました。

 歴史研究者はこれまで氏素性が分からないと言われていた人の素性を調べ上げました。

 例えば、小田原城を拠点に関東地方を支配した北条氏です。

 初代北条早雲で知られています。元の名は伊勢新九郎です。どこの馬の骨とも分からい者が関東の覇権者になったと長く言われていましたが、氏素性が今日分かりました。

 「室町幕府八代将軍足利義政の申し次ぎ伊勢盛定の子で、姉の嫁ぎ先の駿河の守護今川家を頼り、功労あって名をはせ、今川家の重臣になった後、独立して伊豆、相模等の関東を支配する戦国大名になった」

 将軍の申し次の役は側近中の側近で、伊勢氏は名門です。関東の覇者になっても良い家柄でしょう。

 

 さらにもう一つの例です。

 美濃(岐阜県)を制した斉藤道三です。信長の舅です。この人も謎の人物として有名でした。油売りから一代で戦国大名になった立志伝中の人として知られてきましたが、本当の素性が分からなかったのです。

 当時の人も分かりませんでした。それでは現在の有力説です。

 「お父さんが分かりました、京都妙覚寺の僧でした。西村新左衛門尉と名乗り、美濃に来て守護土岐氏の家臣長井氏を頼り、頭角をあらわし、長井氏と同姓を名乗った。息子の庄九郎(新九郎・道三)は土岐家の家老斉藤氏に取り入り、斉藤家の跡取りとなり、更に主家土岐家を乗っ取り美濃の大名に栄達した。道三は一代で栄達したのではなく親子二代の力で戦国大名になった」

 

 このように有力戦国大名の氏素性が今日になって分かって来ました。しかし明智光秀は分かりません。

 それでは光秀生存のころの当時の人(インテリ―層)が彼の出自についてどのような認識だったのかを記しましょう。

 ○「多門院日記」天正10年(1582)6月17日条

  関係部分を現在語訳します。

 

  “日向守(光秀)は、元は細川兵部(藤孝)の中間、即ち武士以下の下働きの身分であった”

 

と記しています。

  細川藤孝は15代将軍足利義昭の家来から信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え熊本藩主になった幽斎です。細川護煕元総理大臣の祖先です。

  「多門院日記」は奈良の興福寺の塔頭多門院において僧英俊がつけた日記で当時の時代を知る一級史料です。

 

 ○「ルイス・フロイスのイエズス会総長宛日本年報」1582年11月5日

  ポルトガル語を松田毅一氏が訳されたものです。

 

  “信長の政庁に、名を明智といい、元は低い身分の人物がいた。すなわち、卑しい家柄の出であり、信長の治世の当初、或る貴族に仕えていたが…・”

 

  ルイス・フロイスは伴天連のポルトガル人の宣教師で、多くの日本についての記録を本国に送っています。明智光秀については特に恨みはありませんから当時の光秀についての風聞を記したのでしょう。

  ルイス・フロイスの記録も一級の史料です。

 

 ○「太田牛一旧記」 太田牛一

  関係部分を現在語訳します・

  

  “去るほどに明智日向守光秀は、越前の国(福井県)の朝倉家へまかりこし、奉公を致しましたが待遇が良くないので辞し、下僕の身分でやって来て、信長公に仕え、その後信長公に1万人の家来持にしてもらったところ…”、

 

  太田牛一は織田信長の家来で信長の一代記(信長公記)を著し、彼の事実への忠実さは定評があります。これも一級史料です。

 

 ○「遊行上人三十一祖京畿御修行記」 遊行代三十一代同念上人

  (天正八年正月二十四日)

  関係部分を現在語訳します。

 

 “(これ)(とう)(信長からもらった光秀の氏名)はもと明智十兵衛尉(光秀)と言って、美濃国の土岐一家の牢人であろうか、越前国の朝倉義景に頼んで家来にしてもらった。長崎称念寺(美濃国)の前に10年ほど住んでいた”

 

  光秀は美濃の土岐家の庶流の明智一族かその郎党の牢人であろうか、朝倉義景に仕えていたと記しています。

 

  これを記した同念上人と称念寺の住職とは懇意で、その住職は明智十兵衛光秀を美濃で面倒見てやり、朝倉家に推挙した関係にあると言われています。同念上人は住職から光秀のことを聞いたことを書き著したものと思われます。

 

 ○15代将軍足利義昭が未だ越前の朝倉家に寄宿していた頃の家来の一覧表

  が残っています。

 

  お供衆(13名)、お部屋衆(15名)、申次(6名)、詰衆一〜5番(56名)、奉行衆(11名)、足軽衆(明智等14名)、奈良御供衆(14名)、御小者(5名)諸大名御相伴衆(7名)、同朋衆(8名)、外様衆 大名在国衆(53名)、の名前がそれぞれ記載されています。

  

  足軽衆の中に「明智」とあります。名前がありませんので光秀と断定は

  は出来ませんが光秀とも思えます。

  足軽は騎馬武者でない徒侍(かちざむらい)です。身分の低い侍です。光秀は足軽大将だったかも知れません。分かりません。

 

 上記が光秀が生存の頃まで(天正10年まで)に書かれた当時の記録です。

光秀が信長に仕える前までの素性、経歴のすべてです。これらの記録は今日一

級史料と言われていますので、記述者の思い違いや聞き間違いない限り真実と

思われます。

 

 上記史料から内容を整理します。

 織田信長の家臣になったことはもちろん史実です。その前は牢人で、その後

越前の称念寺に厄介になって、その住職の世話で朝倉義景の家来になったが身

分の低い侍であったようです。

 

 後年15代将軍となる足利義昭が朝倉家を頼って越前に来た時に、義昭の家

来にしてもらいました

 義昭が朝倉義景から織田信長に乗り換えようとする時期(天正11年頃)に

義昭の用事を仰せつかって信長に面談し、信長の目にとまって信長の家来にし

てもらいました。よって光秀は信長と義昭が喧嘩別れをするまで(天正元年)、

義昭将軍と信長の両方の家来であったことになります。(知行は信長からもらっ

ていたに違いありません)

光秀は、信長が義昭将軍を追放するときに、義昭に見切りをつけて信長につき

ました。

 以後信長を謀殺するまで光秀は忠実な信長の家臣でした。

 「多門院日記」では細川藤孝の家来と記していますが、藤孝と光秀との間が

ずっと密接であり、藤孝の身分が高い所から英俊はそのように思ったかもし

れません。又一時光秀は藤孝の家来であったかもしれません。

 

 このほかの事ですが、祖先が土岐家かその庶流の明智家か、はたまたどちら

とも関係ないのか分かりません。美濃(岐阜県)に明智と言うところは今でも

ありますが、そこの出身かどうか分かりません。そうかもしれませんが本人や

周囲の者が書き留めた当時の記録史料はありません。

 

それにお父さんの名前も当時の史料には一切載っていないのですから。

  

 明智光秀について記した物語や記録のほとんどは江戸時代に入って、明智

光秀の関係者が死んでからのもので、記述の根拠がはっきりせず、内容からし

てほとんど創作で、事実を伝えない史料価値の低いものと判断されています。

 

 有名な読み物しては「明智軍記」、「明智物語」があり、光秀の出自を語って

いますが信用できません。

 その他としては、「綿考輯録(細川家記)」(細川忠興の業績が中心、18世

紀末の作)、「当代記」(徳川家の業績、17世中の作)、「豊鏡」(豊臣秀吉の伝

記)、17世紀の作)、の中に光秀の出自についての記事がありますが、光秀

の記事部分は「明智軍記」からの転用や不確かな言い伝えを記述しており、

光秀については信頼できません。

 

 光秀の死没時の年齢ですが、これもはっきりしません。分かりません。

 「明智軍記」では55歳、「細川家記」では57歳、「当代記」では67歳と

なっています。

 今日では60歳を超えていただろうとする説が有力のようです。今でいえば

80か90歳でしょう。

 年齢からして、信長謀殺は光秀にとって天下取りの最後のチャンスと考えた

かもしれません。

  

 2016年1月12日

 

梅 一声